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寒々とした現代「楢山節考」
牧念人 悠々
行方不明や所在不明は戦争や災害の際に起きるものと思っていた.そうではないらしい。平和の際にも都会では起きる。形は「徘徊したまま行方不明」「独居生活のまま連絡を絶つ」「一家で行方不明」となって現れる(産経新聞)。形は異なるにしろ底に横たわるのは寒々しい飽食暖衣の都会ジャングルである。親子の情・親子の絆の片々も見出しえない。たとへ別かれて住んでいても親の安否を気遣うのは子として当然のことである。小説「楢山節考」は孝行息子が村のおきてに従って、70歳を迎えた母親を背負って楢山まいりにゆく。背中に母親のぬくもりを感じながら息子は涙をこらえて貧しい村の定めに従う。現代はその涙さへない。100歳以上の所在不明が50人以上もいると聞いて暗然たる気持ちにならざるを得ない。事実上、厄介者の親を楢山に捨てているのと同じではないか。
現在、85歳以上の独居世帯は61万6千世帯、年金受給者は4000万人、100歳以上は4万399人である。その確認は行政の責任ではない。家族の責任である。いま親がどのような状態にあるかを知るのは家族である。行政の埒外にある。徘徊気味であれば施設に入れるなり病院と相談して措置をすればよい。独居の親であれば、家族が集まる日を決めたり毎日連絡を取ったりすればよい。わずかな心遣いにすぎない。
なぜ戦後このように親子の絆が薄くなったのか。多分に戦後教育と家庭のしつけにある。さらにいえば、無責任な個人主義がはびこる世相にも一因がある。戦前は「父母に孝に友に夫婦相和し朋友相信じ」と教えられた。これが戦後、GHQによって軍国主義を助長するとして拒絶された。これは人間として生きるために必要な徳目である。いたずらに個人主義と自由主義が強調され謳歌されて今日に至っている。今日は若い親たちはどのように子供に接しているかと言えばこれが情けない状況にある。
元中学校校長・河村保男さんの話によれば、今の親は1、子供の言いなりになっている.2,子供にとって怖い存在ではなくなっている。友達的存在になっている.3、痛い思いをさせてまでしつけをすることをしなくなっている。4.子供に対して物分かりがよすぎる等をあげている。
このような状況ではますますわがままで自分勝手な子供が多くなり、親の面倒や心配りするようなことはないであろう。とすれば、今後も所在不明者が出るであろう。ユダヤの格言は「老人を大切にしない若者には、幸福な老後は待っていない」と言う。現状にしっぺ返しを食うのは子供自身であることを知るべきであろう。
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