2010年(平成22年)8月10日号

No.476

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追悼録(390)

天平仏訪ねる旅や八一の忌  佐藤富美子


 歌人・書家の会津八一三が死んだのは昭和31年11月21日である。76歳であった。この歌人は『南京新唱』『鹿鳴集』『寒灯集』等の歌集を残す。法名は「渾斉秋草道人」。墓は生まれ故郷の新潟市の瑞光寺と東京・練馬区関町の法融寺にある。27歳の時初めて奈良を訪れた。奈良美術にはまり込む始まりである。「仏像の虜」になる。この時、会津は早稲田大学を卒業、英語の教師として上越の有恒学舎に勤務していた。27歳は確かに人生の転機である。私も27歳の時に「新しく出来るテレビの報道記者にならないか」と強く勧められた。警視庁記者クラブで事件記者として脂ののりかかった頃で、「人間の業(ごう)」に深く興味が注がれた。新聞記者を生涯の仕事とも決めていたので丁重に断った。

 会津が奈良旅行中の5日間で回った場所は東大寺、春日野、新薬師寺,春日若宮、若草山、法華寺、秋篠寺、法隆寺、法起寺などである。この旅先で歌を読む。「いかるがの さとのおとめは よもすがら きぬはたおれり あきちかみかも」。明治41年8月のことである。奈良旅行の後、会津のノートブックには20首の歌がしたためられた。詩歌の才能があったのであろう。うらやましい限りである。歌,詩、俳句は多分に天分だと思う。私は29歳の時に社会部遊軍になった。ある時夕刊用のスケッチ写真の説明を書かされた。何度も書き直しを命じられた。名文家のデスクは最後に「俳句を勉強するといいよ」といった。それ以後、俳句の本は何十冊となく読んだ。俳句は作らなかった。作るようになったのはそれから40年後である。人間が鈍感なのである。

 カタログ「奈良の古寺と仏像」によれば、「会津は大正時代に実際の美術品をはなれて美術史は存在しないという見解を初めて明らかにした。会津の美術史学は極めて見識の高いハイレベルのもであった」と評価する(大橋一章)。

 因みに11月21日と言う日は、1481年に一休が88歳で、1724年、近松門左衛門が72歳でそれぞれ他界している、塚本邦雄は「奇縁と言うほかない。まったく比較を絶するようであり、どこかで響きあうところもあり、互いに二百数十年を相隔てた、これら人生と詩歌の達人,他界で何を語るのか」と書く(「句句凛凛ー俳句の扉ー毎日新聞社」)。一休は室町中期の臨済宗の僧、号を狂雲という。「風狂の狂客」と自称する一休には次のような詩がある。「風狂の狂客、狂風を起こし 来往す,淫坊の酒店の中 具眼の納僧,誰が一拶する 南を画り北を画り西東を画る」。近松は江戸中期の浄瑠璃。歌舞伎の脚本作者、平安堂・巣林子と号す。「曽根崎心中」「心中天の網島」「女殺油地獄」などの代表作品がある。辞世、「残れとも思ふもおろか埋み火の消ぬ間あだなる朽木書きして」である。狂雲、巣林子、秋草道人、それぞれの道の達人である。

 仄聞すると、他界で次のような会話が交わされたという。
狂雲曰く「昨今の若者の狂気はすぐにかっとなって人を殺めるだけじゃ。我慢が足りぬ。子供の時のしつけがなっていない。わしの風狂とは異質じゃ」
巣林子曰く「シネマ歌舞伎と言うものができたそうじゃな。わしも見たいものだよ。歌舞伎がますます盛んなのは嬉しいことだ」
秋草道人曰く「奈良への観光客が増えて何よりだ。仏像がどのように作られた良く知っている御婦人も少ないと聞いて喜んでいる。知識を増やすと同時に人間の生き方も学んだらなおさら良い」

(柳 路夫)