2010年(平成22年)5月20日号

No.468

銀座一丁目新聞

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追悼録(384)

友人平野勇夫君逝く


 友人の中には運命を変える男がいる。その一人、平野勇夫君が死んだ(5月5日享年85歳)。毎日新聞社が昭和23年に復活した社会部警察回りの仲間であった。入社当時から10人の察回り記者の中で飛びぬけて優秀であった。頭が良く、着眼点抜群、それに文章がうまかった。なぜか私と気があった。男同士の直観である。「この男は何かを持っている」と感じたからであろう。理屈ではない。遊軍時代には連載企画「官僚ニッポン」を一緒に担当、企画は好評であった。菊池寛賞、日本新聞協会賞、社長賞を頂いた。
 彼がニューヨーク特派員になったことがある。いずれ将来、コラム「余録」を書かせるためだと聞いた。たまたま昭和43年10月、メキシコでオリンピックが開かれた際、その帰りニューヨークに立ち寄って,御馳走になりよもやま話をしたことを懐かしく思い出す。
 忘れもしない昭和51年2月10日であった。当時編集局長の平野君から論説委員をしていた私に話があるからと呼び出された。「ロッキード事件がそろそろ動きだしそうだ。3月1日付で社会部長になってくれないか」と言う話であった。即座に引き受けた。昭和44年8月、社会部デスクから論説委員になった。すでに6年半論説生活を堪能していた。この職場ほど本が読め、勉強ができ、知識人との交流の機会が多く、遊べるところはない。ゆくゆくは大学教授になってマスコミでも教えようかなと思い始めていたところであった。すでに社会部長は後輩がなっていた。私は入社した時から毎日新聞で骨を埋める決心をしていた。これまで転勤・異動については上司の言うままに従ってきた。時に年齢は50歳であった。戦後、50歳を過ぎてから社会部長になった人は一人しかいない。それだけ社会部長が劇職だということである。ロッキード事件報道では読者のために大いに頑張った。当時読者から「毎日新聞を読めばロッキード事件がわかる」と言われた。このころ昭和51年秋だと思う。平野君のアイデアで「記者の目」が生まれた。今なお続いている名企画である。
 社会部長就任が私のその後の人生を変えた。社会部長1年1ヶ月勤め、編集局長になる。その編集局長も毎日新聞の経営危機から新旧分離ということで、わずか8ヶ月で辞め、今度は取締役・編集総務になる。「もっとも役員らしくない男」と言われた。直情径行、筋が通らなければ上司にも文句を付け、けんかをしてきた男である。無理もない話である。毎日新聞は西部代表を6年半勤めて定年退職した。毎日新聞で自分の腕を伸ばし、好きなように生きてこられたのは平野勇夫君のおかげである。感謝のほかない。心からご冥福をお祈りする。
 

(柳 路夫)