2010年(平成22年)4月20日号

No.465

銀座一丁目新聞

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追悼録(381)

友人山田隆三君をしのぶ
 

 毎日新聞の名物男で私とは九州とスポニチで働いた山田隆三君がなくなった(4月9日・享年75歳)。通夜・告別式とも参列した(4月14日、15日)。多くの友人知人が彼の冥福を祈った。告別式では私は弔辞を述べた。その弔辞を追悼録とする。

「山田君、 少し早すぎるな。ちょっぴり落ち込んでいる。85歳の私には親しい人がこの世を去るのは身にこたえる。75歳はまだ若造です。私の目標は120歳だよ。もう少し付き合ってほしかった。奥さんの孝子さんも娘さんの美香さんも、それに二人のお孫さんも同じ気持ちと思う。
 君と私とは同じ毎日新聞に長い間おりながら仕事上の接点は何もなかった。出会いは昭和52年11月27日。今から33年も前です。長野市内で開かれた社会部員、飯島一孝君の結婚式であった。君は飯島君の青森支局次長時代の上司ということで、私は直接の上司として、ともに出席した。このとき君は石川さゆりのヒット曲『津軽海峡冬景色』の替え歌を歌った。大変な拍手であった。会場は一挙に盛り上がった。私はその声にほれた。いい声であった。声は健康だけでなく、その人の性格、人生観、道徳観までわかると、詩人の三好達治がいっている。私はこの三好説を今でも信じている。だから今でも声で人間を判断する。
 そこで帰京してから、ひそかに君の身元調査をした。取材だけでなく事業才能も抜群とわかった。その後、君は埼玉西支局長、新潟支局長、青森支局長を歴任した。私が昭和62年6月、毎日新聞西部本社代表をやめて西部毎日会館社長に就任したとき、会館の収入をはかり、テナントに喜んでいただくため事業に力を入れることにした。そこで選んだのが当時青森支局長の山田隆三、君だった。その人選は間違いではなかった。黒沼ゆり子さんのヴァイオリンリサイタル、「シャガール展」、テナント対抗歌合戦。テナント対抗マージャン大会など大小さまざまな事業を展開した。君の最大のヒットは平和台球場の奈良・平安朝の迎賓館『鴻臚館』あとから出土した青磁花文椀を復元し「よかとびあ博覧会」に特別展示した一連の事業展開であった。これは日韓文化交流に大きな足跡を残した事業であった。
 好事魔多しという。復元した青磁花文碗の第一号作品をスポニチの社長をしている私に見せようとして車で上京中、中国自動車道で交通事故に遭遇してしまった。平成元年3月8日のことであった。死と壁ひとつの事故であった。私が君を九州に呼ばなければこんな事故と会わなかったであろうと何度も思った。『生きてくれ』と祈った。
 1年のリハビリを終わったあと、君をスポニチに迎えるのは私の当然の務めであった。平成2年4月新設した「総合事業推進本部」に来ていただいた。ここでも遺憾なく事業才能を発揮した。アイスランドやプラハまで足を伸ばしスポニチが進める国際交流事業に力を尽くした。スポニチ時代、君はほとんど社長室の私の元に訪ねてこなかった。毎日時代からの縁を遠慮したのであろう。だが、君と私の間では顔を合わせれば何を考えているのかわかった。多少の食い違いがあっても君は常に私が意図したことに常にプラスアルファをつけて事業を立派に仕上げてくれた。得がたい人材であった。
 2年前に君が出した著書「ルーツ探しの旅 喜兵衛地蔵はご先祖だった」は君の人生の集大成であった。よい本を残されたと思う。
 昨年12月、私は君の頼みで毎日新聞OBの同人誌「ゆうLUCKペン」の幹事になり。君を含めて幾人かの編集幹事と何かと会う機会も多くなるだろうと期待していた矢先、君を失うことは大きな痛手である。
 君がこの世に最後に残した言葉は、手術室に向かう君に夫人の孝子さんが『頑張ってきて』と声をかけると『何を頑張るのだ・・・』と笑って答えたものだったという。
 人間は「死後も人間完決の旅を続ける」という。やはり頑張らなくてはなるまい。まあ、あわてず、のんびり、ゆっくり過ごしてくれ。私も34年後にそちらに行くよ。今度は君が先輩だよ。私を導いてくれ。在天の霊に付して懇願する。
 心からご冥福をお祈りする」
 

(柳 路夫)