歌人で、和歌山県花園村の村長であった部矢敏三さんがなくなった(1月16日・享年80歳)。3月はじめに夫人の恵美子さんから敏三さんの訃報のお葉書をいただいた。心からご冥福をお祈りする。
直接お目にかかったのは東京・越中島のスポニチ本社であった。当時、開講していた「スポニチ・マスコミアカデミー」(第6期・平成8年2月)の講師としてお招きした時であった。これからマスコミを志望する若者に小さな地方自治体の現実を報告していただいた。花園村は人口620人で、日本の自治体では最小の人口であった。『村がよくならなければ日本がだめになる』というのが持論。洞窟を恐竜ランドにしたり、村民の日常生活をビデオにとり、カプセルにして埋めたりしてユニークな村おこしをされていた。平成13年2月、花園村で莫大な費用を出して劇団「ふるさときゃらばん」の「噂のファミリー1億円の花嫁」を公演した。劇団がツアー旅行を企画したのでそれに同行して部矢さんと二度目の対面をした。ミュージカルには村の人口の半分の300人が会場の中学校の体育館に見に来た。このミュージカルには酪農一家が台風で牛が流される場面が出てくる。花園村で昭和28年7月襲った台風で村民6000人以上が犠牲となっている。観客の村人は舞台を凝視し、身動きひとつしなかった。牛を守るため村民が協力して暴風と戦う姿に、当時の自分たちや親たちを重ね合わせたのであろう。大きな感動を呼んだ。公演に反対した村会議員がミュージカルを見て涙を出しながら『申し訳ありませんでした』と部矢さんに頭を下げた。人口620人の村に村が費用を出してミュージカルを開くというのは英断というほかない。『何も彼も山越えて来るわが村よたとえば鰯雲もあなたも』と歌った文化人村長ならではの仕事であった。
部矢さんは昭和15年ごろから俳句に親しみ、戦後の昭和47年ごろに5・7・5の俳句では自分の思いを詠むことが出来ないと短歌に親しむようになった。
『蛙らに後を頼みて植え終えし田より二本足を引き抜く』
『陳情に言葉を費い果たし来て蛙の闇へ傾るる眠り』
『年ごとに人の減りゆく峡の空に今日湧くさまに燕帰り来』
部矢さんと親交のあった鳥海昭子さんは『部矢さんのつむぐ短歌は、そこで生きると決めた人間の生活と真情に裏打ちされた短歌本来の叙情のふるさとである」と激賞したことがある。私の手元にある部矢さんが出したはじめての歌集『山峡の賦』(藍書房・平成8年8月発刊)をもう一度ゆっくりと熟読したい。
(柳 路夫) |