2010年(平成22年)2月20日号

No.459

銀座一丁目新聞

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追悼録(375)

「世界のミフネ」をしのぶ
 

 美輪明宏さんが「スポニチ」に毎日曜日「明るい明日を」のコラムを連載している。人の気がつかない視点で問題を論じているので面白い。私の好きな俳優であった三船敏郎さんを取り上げたことがあった(2009年12月20日)。『日本の映画評論家やジャーナリストのほとんどが、三船さんは黒澤明監督の映画に出演したおかげで「世界のミフネ」になったと思っているようですが、それは大きな間違いです。本当は「世界のミフネ」がいたから黒澤監督は「世界のクロサワ」になれたのです』。人の意表をつく見方である。美輪さんのその理由は三船のデビュー作品は谷口千吉監督の「銀嶺の果て」(1947年)で、この逃亡犯の演技がすばらしく、黒澤監督がそれに目をつけ自分の作品の『酔いどれ天使』に起用した。三船は黒澤監督の映画に出る前からすばらしい俳優であったと美輪さんはいう。これには若干説明が要る。映画『銀嶺の果て』の脚本は黒澤監督である。谷口監督は黒澤監督とは親友の間柄である。三船は3人の遭難者のうちの一人を演ずる。迫真の演技であったと評判を得る。もう一人の遭難者は志村喬が演じた。「酔いどれ天使」は三船にとってデビュー3作目である。主演は志村喬であった。今回も三船は野生味あふれる演技が注目された。さらに言えば、戦後東宝の第1回『ニューフェイス』の採用試験で三船を補欠採用したのは黒澤監督の師匠、山本嘉次郎監督である。採用試験の面接委員に黒澤監督も入っていた。三船にははじめから監督黒沢の姿がちらつくのである。面接の際、「態度がふてぶてしい」と問題になった三船敏郎という27歳の青年を黒澤監督は当然ながら注目していたと思われる。だから三船のデビュー3作目の作品に出演させたのであろう。
 三船さんとは昭和62年10月、大連で日本映画際が開かれた際、高野悦子岩波ホール総支配人、山田洋次監督らとともに大連を訪れたことがある。連鎖街の近くに生家の『三船写真館』があった。2階建ての建物は半分取り壊されていた。父親はもともと青島で貿易商と写真館を経営していた。三船さんの話では『大連中学に通ったこともありますが卒業は青島中学校です』といっていた。大連映画祭では山田洋次監督の『男はつらいよ』の第38作『知床旅情』を上映した。この作品のマドンナは竹下景子さん。三船さんは頑固な老人、獣医師役で出演していた。私がいた寄宿舎『大連振東学社』はすでに取り壊され労働者用のマンションが建っていた。三船さんも同じであったであろうが自分が住んでいたところがなくなったり壊されたりしている跡を見るとなんともいえない悲哀を感じる。
 平成9年12月24日、『世界のミフネ』はなくなった。享年77歳であった。告別式では高野悦子さんが弔辞を読んだ。心に響くものがあった。
 

(柳 路夫)