2010年(平成22年)1月1日号

No.454

銀座一丁目新聞

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安全地帯(271)

信濃 太郎

「散華」―英霊のおかげで今日の日本がある―
 

 友人、安田新一君から追悼録「散華」の原稿を送ってきた。
 ―終戦直後、昭和20年10月某日、陸軍士官学校より復員してから私は縁あって母校日大二高に招聘され教鞭をとっており、休日を利用し単独で奥多摩登山に、青梅線軍畑駅―日の出山―御岳山―大岳山―五日市駅のコースを縦走した。その折、日の出山頂より東側直下の森林の中を登頂中、大規模な墜落した航空機の残骸に遭遇、周囲には弾薬も無数に散らばり、衣類などが木に掛かり、火災を免れていたが、目を覆いたくなるような鬼気迫る凄惨な状況であった。残骸の様子で日本軍の爆撃機のようであった。合掌黙祷し、その場を離れ、山頂山小屋の主人に、当時の状況を聞いたところ、墜落ではなく山腹へ激突したのであって、矢張り日本の爆撃機で村の人々が多数の遺体を収容して麓へおろしたとのことであった。
 翌年の春、山岳部十数名を引率し、わざと事前には知らせず同じコースを歩いた。現地は相当片付いていたが、まだエンジンなど大きな残骸は散らばっており一見して凄惨な墜落現場であった。状況を説明し、慰霊のため、全員整列黙祷し「英霊のおかげで今日の日本があり、しっかり勉学に励みその恩に報いよ」と諭した。
 それから数年の月日がたち、偕行社記事(陸軍士官学校同窓会報)の56期生の欄に「春日改造大尉 昭和20年8月11日児玉飛行場より硫黄島爆撃の帰途奥多摩山中に墜落」とあり、終戦4日前、あと数分で帰還の途中、山頂まであとわずか高さ100mぐらいで母国の山に激突とは武運つたなく、きわめて悲壮であり、さぞご無念であったろうと拝察する(燃えていないので燃料切れも考えられる)。
 ご遺族の住所もあったので早速お悔やみ状に当時の様子をお知らせした。記憶によれば信州のご出身であったと思うが、ご遺族より丁重なお手紙とともに立派なリンゴが送られてきた。早速、新婚の妻を伴い、そのリンゴ数個を持って日の出山に登ったが、現地は「夏草やつわものどもが夢のあと」数年の間に草木が繁り、山容も変わりついに捜索を断念し、やむなく、ここと思われる所に妻が石を集め仮の祭壇を作りリンゴをお供えしてご冥福をお祈りし、その写真を撮ってご遺族に送った。
 最近、偕行記事に青梅の郷土博物館に上記の破片が展示してあるとのことが掲載されていたのでぜひ、妻を伴い往時をしのび訪問しお悔やみしたいと思っている。
 (付)同機は、当時最新の四式銃爆撃機で、57期楠秀男中尉も同乗されていたことも判明、あわせてご冥福をお祈りします―
 私が調べたところ、「陸軍士官学校士官名簿」には「春日改造大尉は 昭和20年8月11日西多摩郡吉野村上空 殉職」とあり、留守宅は「長野市長野河原崎、 弟秀夫」となっている。
 楠秀男中尉は春日大尉と同じ場所で「戦死」とあり、留守宅は「奈良市若葉台、兄正雄」となっている。楠中尉は地上兵科出身で所属は「16独飛」とある。
 当時、児玉飛行場には第一航空軍の第27飛行団(団長・野中俊雄大佐)の本部があり、重爆の98戦隊(隊長・宇木素道少佐)が展開していた。春日大尉はここから米軍に占領されたばかりの硫黄島に爆撃に赴いたわけである。四式重爆撃機の乗員は8名。航続距離は3800キロメートルである。東京から硫黄島まで1250キロ、爆弾を落として帰れる航続距離である。
 98戦隊には面白いエピソードがある。敗戦直後、米軍の指示に基づいて大本営は「8月24日午後6時以降一切の飛行を禁止する」との命令を出した。最後まで徹底抗戦を叫ぶ98戦隊は四式重爆機に魚雷をつるして大本営を爆撃する構えを見せた。不穏な空気を察した野中大佐が「魚雷を大本営の建物にぶつけても割れるだけで爆発はしない。しっかりしろ」となじると、戦隊長の宇木少佐は「じゃ辞めます。その代わりトラックで押しかけます」とその夜、陸軍省に押しかけ、幕僚連中を吊るし上げただけで事は収まった。27日には部隊は解散したという。(秦郁彦著「八月十五日の空」・文春文庫)