花ある風景(369)
並木 徹
革命をプロデュースした日本人・梅屋庄吉
中国の胡錦濤国家主席が2008年5月6日来日した、その日の晩餐会は日比谷の「松本楼」で開かれた。なぜと疑問に思われら方もいるであろう。主催したのは当時首相の福田康夫。「松本楼」の2階には孫文と梅屋庄吉の友情を示す資料が展示された。辛亥革命の指導者、孫文とこれを助けた梅屋の遺影に胡国家主席は深い感慨に襲われたに違いない。松本楼の社長小坂哲朗さんの夫人主和子さん(故人)は庄吉の孫に当たる。孫文ゆかりの場所で一席を設けたのはよい計らいであった。
小坂文乃著「革命をプロデュースした日本人」(講談社)には孫文と辛亥革命を最後まで支援した梅屋庄吉の一代記がよく描かれている。文乃さんは庄吉の曾孫にあたる。
孫文が宋慶齢と結婚式を挙げたのは大正4年11月10日、場所は梅屋庄吉の自宅、東京都新宿区百人町である。参列したのは犬養毅、古島一雄、小川平吉、佐々木安五郎、頭山満、杉山茂丸、寺尾享、宮崎滔天、萱野長知ら。孫文49歳、慶齢22歳。しかも孫文は3人の子供がいながら前夫人を離縁しての結婚であった。孫文夫妻と仲人役の庄吉と夫人トクは義兄弟、義姉妹の杯を交わす。二人の出会いは明治28年1月、庄吉が香港で開いていた写真屋「梅屋照相館」。英国の医師の紹介で訪ねてきた孫文の国を憂うる心情に共感、「君は兵を挙げたまえ。吾は財を挙げて支援す」と盟約を交わす。庄吉27歳、孫文は2歳年上であった。
革命はしばしば失敗する。孫文は亡命を繰り返す。そのつど庄吉は孫文に資金援助をする。その額は今の貨幣価値に換算すると1兆とも2兆とも言われる。中国だけでなくフィリピン革命にも援助している。やがて「革命の黒幕」と見られ、当局から追われ香港からシンガポールに移る(明治37年5月)。今度は映画ビジネスで儲ける。「商いは待っているばかりでなく、こちらから積極的にアプローチせよ」というのがコツという。36歳のとき長崎に帰国、明治39年から映画ビジネスに「Mパテー商会」を作り、本格的にスタートする。草創期に東京の吉沢商店と京都の横田商店がすでに“活動写真”を手掛けていた。梅屋庄吉は商売上手であった。二強に対抗するため斬新な手を次々に打ち出す。映画のスチール写真を絵ハガキにしてばらまいたり2頭馬車に音楽隊を乗せて東京市内を練り歩いたり新聞にも大きな広告を載せたりした。しかも広告の切り抜きを持参すれば料金は半額。軍人と学生も半額であった。案内係には美人の若い女性をそろえた。料金は特等1円20銭、4等20銭であった。上映作品は「キリスト教一代記」、短編実写、喜劇などであった。チャリティ興行もやったというから驚きである。教育映画の輸入にも力を入れた。イギリス、イタリア、アメリカから120種類近い教育映画を買い、上映した。やることがケタ外れている。「活動写真百科實典」も自費出版をしている(明治44年)。明治42年には自社撮影所を完成させる。このころ2台の大型自動車を購入する。日本で一番はじめに自動車を買った人は大倉喜七郎で、明治32年である。故障ばかりして実用にならなかった。同じ年12月大正天皇の成婚式を祝って在米邦人が自動車を一台献上している。明治40年の東京府の自動車は16台と記録されている。自動車は貴重なものであったことには変わりはない。ここの撮影所での作品第一号は「大西郷一代記」である。しかも明治42年に出来上がったばかりの両国国技館で上映した。取材・撮影許可がない伊藤博文の国葬(日比谷公園で明治42年11月4日挙行)の撮影を潜入してカメラで隠し取りをする離れ業も見せる。他の2社がやらないことにチャレンジして、ことごとく成功させる庄吉の手腕は見事というほかない。白瀬矗中尉の南極探検の撮影も頼まれた映画にしている。庄吉は探検の費用として4000円を寄付する。この映画は国技館で公開された後、全国で上映された。この映画の収益は11万5000円。探検費、隊員、船員の手当を含め後援会のすべてをまかなうほどの金額になった。庄吉は一切の報酬を求めなかったという。庄吉とは関係のない事情が別にあったのであろうか、綱淵謙錠著「極」-白瀬中尉南極探検記(下)(新潮社)によれば、白瀬は探検のため、巨額に上る負債を抱え込んだという。住宅まで売り払って隊員の給料の不足に当てた。さらに次女の白瀬武子を連れてフイルム一巻を携え、全国に映画講演会旅行に赴いている。白瀬の借財返済生活は昭和10年ごろには片が付いている。
1911年10月10日武昌蜂起に成功、11日には漢口、漢陽を占領、革命の波は広がり中国の3分の2が独立を宣言する。この時、コロラド州のデンバーにいた孫文はヨーロッパ諸国が清国政府に援助しないように牽制し回った。外交面から革命軍をサポートしたわけである。庄吉ら日本人の志士たちは人・物・金の援助を続けた。闘いに参加して命を失った日本人もいる。12月29日、孫文は臨時大総統に選出される(17省の代表者のうち16票を獲得する)。翌年の1月1日に中華民国が成立する。2月12日には清朝が滅びた。だが、革命勢力の力まだ弱く2月14日には臨時大総統を袁世凱に譲る。3月20日には中国革命同盟会を改組した国民党の党首宋教仁が袁世凱の差し向けた刺客によって暗殺される。袁世凱が野望をむき出しにしてきた。2月に行われた衆参両議院選挙で、直接選挙がおこなわれる衆議院選挙の有権者は男子のみ約2500万人、結果は国民党が袁世凱の共和党に圧勝した。中国で総選挙が行われた事実を初めて知る。国会の承認なしでは袁世凱は何もできない。袁世凱は武力を背景に国民党の一掃に乗り出す。孫文らは第二革命に敗れ、孫文は日本へ亡命を余儀なくされる。革命が成功しないまま孫文は1925年(大正!4年)3月12日北京で死去する。享年58歳であった。庄吉は世界の情勢を知るだけに日本の行くへを心配し中国との対話を要路の人たちに進言している。面会者には荒木貞夫陸軍大臣、参謀本部編成動員課長東条英機の名前が見える。梅屋庄吉が波乱万丈のこの世を去ったのは1934年(昭和9年)11月23日であった。享年65歳であった。本書は最後に「庄吉は孫文と出会ってから、息を引き取るその時まで、彼の築いた財の大半を革命資金に費やし、その人生の大半を東洋平和のために奔走した。庄吉はしかし、一切の見返りや名声を求めなかった」と結ぶ。このような本こそ中国語に翻訳して出版すれば日中親善友好に大いに役立つであろう。
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