2009年(平成21年)12月20日号

No.453

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茶説

少年は1000キロの
満州の曠野を歩いた

牧念人 悠々

 少年期をハルピン・大連で過ごした私にはハイラル、白系ロシア人、コザックなどの言葉は懐かしく響く。その反面、滅び行く民族が悲惨な境遇にありがらも強靭に生きてゆく様に胸が熱くなる。石村博子著「たった独りの引揚げ隊」(角川書店・12月15日発行)に10歳の少年が終戦時満州の奥地からたった一人で1000キロの曠野を歩いて日本へ引揚げてきた記録がつづられている。驚くべき事実である。今の日本人の小学4年生にこのようなことが出来るであろうか。
 主人公の名前は「古賀正一」、ロシア名は「ビクトル・ニキートヴィチ・ラーバルジン」。日本人の父を持ち、母親はコザックの血を引くロシア人。国籍は日本人である。ハイラルに住んでいた一家は昭和20年8月9日満州になだれ込んできたロシア軍のためばらばらになる。
 ビクトル少年の「たった一人の引揚げ行」は、いち早く難を避けたハルピンから始まる。ソ連軍がハルピンに侵攻したのは8月20日。私が6年間いたハルピンは血に飢えた囚人兵によって略奪の限りを尽くされ、さながら廃墟のようになった。ビクトル少年は町に出てこれら囚人兵とロシア語を交わす。中国人のバザールが出現すると少年は他の不良少年の仲間とともにかっぱらいをする。スンガリーの魚を取るためにソ連軍の砲弾盗みまでやる。この少年は度胸があり、機転がきき、自由でわがままいっぱいの性格の持ち主である。
 10歳の古賀正一がハルピンをたつのは昭和21年8月末である。どうしても父親より先に日本へ帰国したいというので、なお残って商売をしたいという父親が頼み込んだ、ある町内会のグループに入る。引揚げ列車は第二松花江手前にある駅近くでとまってしまう。鉄橋が壊れているので歩いて船着場まで行くことになった。ここで心無い大人が「ロスケなんか世話が出来ない。帰れ」と少年を隊列から放り出す。他の小隊に頼み込んでも「あっちへ行け」とたたき出される。でもビクトル少年は泣かなかった。残されたズタ袋の中にはわずかな食料と少しの着替えしかなかった。大事なナイフは盗まれたのか見あたらなかった。
 しばらくの間、東北入りした八路軍と反満抗日遊撃隊が合体して編成された「東北民主軍」と行動をともにする。ここで中国兵に武器の使用を教えていた日本兵からロシア製のナイフをもらう。コザックの子供にとってナイフは狂器でなく5,6歳のころから外に出るとき必ず携帯する身体の一部であった。日本の現代社会は小刀に神経を使いすぎる。もっと小刀の効用を知るべきである。少年がめざすは第一集結地点新京。やがて単独行に移る。ビクトル少年がとった行動は10歳の子供が考え付くようなことではなかった。まず他の引揚者と違って線路から出来るだけ離れて歩いた。線路の周囲は昔から匪賊などが横行して危険なところであった。終戦以来、線路沿いには物盗りがたくさん潜むようになっていた。次に白いシャツから緑色のシャツに着替えた。目立たないためである。さらに荒れたところを歩くのに便利なステッキを作る。
 注意を払うのは線路、太陽の位置、木、その下には水脈があることを示している。風、雲。雨にぬれると体を消耗するのでぬれないように心がけた。靴は死体からいただく。タオル、布、食べ物、紐などももらった。鳥の動きにも注意した。ねぐらは身が隠せるくぼみや岩陰を選んだ。首には必ず布を巻いた。虫除けのためにボタンやシャクナゲを地面に逆さに立てて周りをぐるりと囲みこともあった。一番効果があるのは馬糞を利用する方法である。馬糞へ水をたらし、その上澄みを首筋に塗ったり、帽子の内側に塗ったりすると虫たちは寄ってこない。煙の違いからロシア人のうちを見つけ、訪ねてはご馳走になる。水が飲めるかどうかの判別方法も知っている。すごい知識だと思う。がっくりきた時は「深呼吸してにっこり笑う」という。人間はピンチになった時、笑えない。コザック少年はそのすべを知っている。
 コザックの子供は小さい時から草の知識を与えられる。食べられる草とそうでない草の区別がついた。好物はクルミで、パチンコでクルミを落とした。到着した新京でも話しかけてくれる人も食べ物を分けてくれる人は誰もいなかった。少年は死体を見つけると皆うつぶせに直して十字を切って祈りの言葉をささげた。死体は多くがあおむけになって、目玉や口はハエやウジで覆われている。しかも天を恨んでいるような表情であった。少年はそれが嫌であったからそうしたのである。満州からの引揚者の犠牲者は17万6000人にのぼる。
 歩きながら歌を歌った。日本の歌もあればロシアの歌もあった。歌はなえた人間の心
 を奮い立たせる。奉天に着いたのは10月半ばであった。新京〰奉天まで304.8キロ、特急アジア号はここを3時間半で走行した。友人諸岡達一君から頂いた満鉄の時刻表(昭和15年10月1日発行)を見ると。急行で5時間、普通で7時間23分かかっている。奉天から最終の集結地点錦州まであとわずか。ここでも少年は置き去りにされた。最後の力を振り絞った。ともかく錦州までたどりついた。第二松花江〰新京まで111キロ、新京〰奉天まで305キロ、奉天から錦州まで236キロ合計653キロである。これは鉄道の距離である。少年の歩いた距離はこの何倍かになるであろう。ビクトル少年の感想「日本人ってとても弱い民族ですよ。打たれ弱い。自由に弱い。ひとりに弱い。だれかが助けに来てくれるのを待っていて、そのあげく気落ちしてパニックになる」。日本人が心して聞くべき忠言である。少年はやっと父親の郷里九州・柳川にたどり着いた。
 のちの古賀正一は格闘家の道を選び「ビクトル古賀」の名前で世界に君臨する。日本アマチュアレスリング協会の常務理事を務め、日本人初のサンビストとなり、サンボを通じて日ソの架け橋となった。41連戦オール一本勝ちという偉業を成し遂げる。その古賀正一にして「俺が人生で一番輝いていたのは10歳だった」といわしめる。「たった一人の引揚」が彼の人間としての土台を築いたといえる。日本の少年たちに読ましたい本である。もちろん親たちにも読ましたい。この本を出版した角川書店の見識に敬意を表する。