友人の弁護士・吉田和夫君の法律事務所の忘年会に招かれた。場所は新橋の第一ホテル21階の宴会場。招待客は吉田弁護士のクライアント20余名であった。吉田君は私たちの会社の顧問弁護士である。非常にお世話になっている。
21階の部屋から見る東京の夜景が素晴らしく御馳走とともに堪能した。挨拶に立った吉田君が意外な話をする。「今日は義士の日です。幼年学校在学中、この日は校長から義士の話を聞いたり詩吟を演じたりして楽しみました」と言う。そばにいた友人の野地二見君が「広島は赤穂に近いからだろう。仙台(幼年学校)ではやった記憶がない。予科時代(陸軍士官学校)は非常呼集があったよ」と話をした。野地君とは中隊が違うが、調べてみると、同じ区隊の田中長君の予科時代の日記、昭和18年12月14日には「(火曜日)晴 本日夜は義士討ち入りの時、前後2回の非常呼集にその義挙をしのぶ」とあった。武士道の赤心を貫いて本懐を遂げたということで大石内蔵助ら47士の義挙をしのぶ行事が陸軍の諸学校では行われたと言うことであろう。
手元にある資料を見ると、時の将軍綱吉は「忠孝の道」を大切とされていた。「武家諸法度」にも「文武忠孝を励み礼儀を正しくすべし」とある。「徒党を組むことを禁ずる」条項もあり、それを考慮して武士として名譽である「切腹」という処分を選んだのだという。義士の子供19人(男子のみ)は遠島流罪が申し渡され、15歳以上の男子4人が伊豆大島へ流され、残りは15歳になるまで親類預けとなった。
地元兵庫県赤穂市ではこの日、106回目の「赤穂義士祭り」が行われ7万人の観光客が訪れた。47人の義士行列には全国から公募で選ばれた12人と赤穂市民が加わった(スポニチ)。
「忠臣蔵」は不況に強いといわれる。「忠臣蔵」という言葉は事件から50年ほどたってから公演された浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」が大変な人気を得てからである。「赤穂事件」が「忠臣蔵」と名前が変わったおかげで民衆の間に圧倒的な支持が得られていると言える。庶民が共感するのは太平の世に今なお主君の受けた恥辱を部下たちが死を覚悟して目的を達したその志にある。それは新渡戸稲造が「武士道」でいう「眞の名誉は天の命ずる処を果たすにある。それがため死を招くとも決して不名誉ではない」に一致する。47名の義士もって瞑すべし。
(柳 路夫) |