2009年(平成21年)12月10日号

No.452

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茶説

劇団ひまわりの演劇

「アンネ」に感あり

牧念人 悠々

 「アンネ日記」の作者・アンネ・フランクが生きて居れば今年が生誕80周年になる。日本では「アンネ日記」は聖書より読まれているという。劇団「ひまわり」ではその80周年を記念して脚本・横山一真、演出・山下晃彦により「アンネ」を上演した(11月19日から11月29日、「シアター代官山」)。ナチスのユダヤ人迫害から逃れて屋根裏に2年間、8人(はじめは7人)で暮らす”隠れ家生活”は逮捕の恐怖に怯え、陰鬱で暗い。舞台は、はじめと、終わりに80歳のアンネを登場させ語らせるほか、アンネが一時抱いた女優の夢を、ハリウッドの華やかなダンスを披露して舞台を明るくするなど工夫がなされる。不条理な“狂気 ”に対して負けずに敢然と“生きる人間”が描かれている。演出家の山下晃彦は「耳を澄まし、目を見開けば、美しいものは常に世の中にあるのだと思う」という。
 1939年(昭和14年)9月第二次大戦始まる。その6年前からナチスの独裁とともにユダヤ人の迫害が始まった。アンネが小学校に入学した年にはユダヤ人差別法制化される。1941年9月アンネが中学校に入った時にアムステルダムでユダヤ人狩りが行われ、ユダヤ人に対するさまざまな禁止令が出る。舞台ではヒトラーを登場させ、酒場に集まるお客とともにユダヤ人狩りをして気勢を上げ、その“狂気”を垣間見せる。
 フランク一家が隠れ家に住むのは1942年(昭和17年)7月8日である。11日の日記には隠れ家について「すごく変わった貸し別荘で休暇を過ごしているみたい」と感想を漏らす。ここで過ごしたのはアンネの父、オットー(会社社長)、母、エーディット、姉、マルゴーのフランク一家とファン・ダーン一家のペトロネッラ、ヘルマン夫妻に息子のペーター。歯科医師のアルベルト・デュッセルの8名である。1942年11月9日の日記には「何よりも大きなプレゼントはファン・ダーンのおじさんがもたらしたニュース。英軍がチュニスとアルジェリア、カサブランカ、オランに上陸したというのです」とある。ラジオでもニュースを聞いており連合軍の勝利に励まされる。また、ラジオで放送されたモーツァルトのコンサートに聞きほれる。とりわけ「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」に感動する(1944年4月11日の日記)。捕まるわずか4ヶ月前の話である。
 アンネとデュッセルがひとつの机をめぐって奪いあうトラブルを起こす。狭いところに長く居れば気がめいってしまう。日記にはデュッセルについての記述がある。「このひとが飢える心配なんてないのです。専用にしている戸棚に、パンだのチーズだのジャムだの卵だのが、どっさり隠してあるのが見つかりました、私たちがあれほど手厚く迎えてあげた人、事実上、命を救ってあげたとさえ言えるこの人が、みんなに隠れてたらふくご馳走を食べ、しれっとして口をぬぐっているさもしさ、これにはあきれて言葉も出ません」。
 アンネはペーターに次第に引かれてゆく。「目が会うと―ええ、そうするとそのたびに、何かしら温かい感情が身内に流れるんです。そしてそれは、そんなにたびたび味わえるような感情じゃありません{(1944年2月12日の日記)。
 ついに最後のときが来る。1944年8月4日午前10時、8人は密告によりナチスに捕まり、それぞれ各地の強制収用所に送られた。生き残ったのはオットー・フランクただ一人であった。アンネは姉マルゴーとともにベルゲン=ベルゼン強制収用所でチブスのために死んだ。オットーは1980年(昭和55年)8月19日、バーゼル郊外のビルスフェルデンで死去するまで娘アンネの日記を大切に保管してアンネが残した平和へのメッセージを広く人類に知らしめるために生涯をささげたという(深町真理子訳「アンネ日記」のあとがき・2007年7月25日第8刷・文春文庫)。平和のメッセージというより異常な試練に耐えた少女の物語として語り継がれてゆき、強くもあり、弱くもある人間の存在を示し共感を呼ぶのであろう。