友人の弁護士・鹿野琢見君がなくなった(10月23日・享年90歳)。荒川区町屋斎場で執行されたお通夜に顔を出した。中央の遺影に頭を下げた。祭壇には花がいっぱい飾られており、鹿野君の遺徳の大きさを物語っていた。新聞の訃報の肩書きは弥生美術館館長であった。竹久夢二美術館の館長でもある。高畠華宵、竹久夢二の絵が好きであちこちから集めていた。意外にロマンチストなのである。私との付き合いは昭和19年10月、神奈川県座間にあった陸軍士官学校から始まる。ともに歩兵科の士官候補生であった。彼は陸軍部内出身者であった。徴兵検査に合格して昭和15年4月、仙台野砲兵第2連隊に入隊、訓練と勉学に励み、苦闘3年見事、陸士に合格を果たした努力家であった。本科で同じ区隊で11ヶ月間、同じ釜のめを食った仲間である。
戦後は弁護士と新聞記者の付き合いで彼からよく裁判に関する記事をいただいた。というより彼の弁護士家業のお手伝いをしたのかもしれない。弥生美術館で区隊会を開いたこともある。丁寧に絵の説明を受けたのを覚えている。
彼の弁護士活動は良く知らない。その生真面目な性格から士官候補生らしく戦略を立て、懸命に弁護士の仕事に取り組み、成果を上げたであろうことは想像に難くない。昭和54年9月、彼から簡野道明著「字源」(角川書店)を頂いた。それは関東弁護士連合会主催の同会20周年記念論文(昭和48年)、日本弁護士連合会主催、弁護士制度百年記念論文(昭和51年)、同じく連合会主催、同会創立34周年記念論文(昭和54年)でそれぞれ第1席入選したお祝いを兼ねたものであった。そこには『弁護士の使命である「人権擁護」と「社会正義の実現」のために献身したいと念願しております』とあった。彼らしい律義さをうかがわせるものがあった。
また、戦後、陸軍予科士官学校の生徒隊長であった榊原主計大佐(陸士35期)のお世話をした縁でなくなられた(昭和59年10月14日)あと、鹿野君は榊原生徒隊長の追悼録の出版に努力したり、お墓のある多磨霊園での命日祭を取り仕切ったりした。面倒見のよい人であった。またガダルカナル島で戦死した若林東一大尉(52期)が自分と同じく下士官から陸士に進んだというので若林東一大尉伝記「栄光よ永遠に」という本を復刻している。若林東一大尉がガダルカナルで戦死したニュースをわたしたち59期生が知ったのは昭和18年5月19日、大講堂で聴いた大本営報道部長・谷萩那華雄少将の講演であった。若林東一大尉に心酔していた鹿野君は当時の日記にその悲しみをつづっている。「後に続くものを信ずる」と戦いに倒れた若林大尉のことはわれら59期生には大きな感銘を与えた。戦後その遺志を見事に継いだ一人が鹿野琢見君であった。心からご冥福を祈る。
(柳 路夫) |