2009年(平成21年)10月20日号

No.447

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茶説

「カティンの森」事件を記憶せよ、忘れるな
 

牧念人 悠々

 「カティンの森」事件は1939年(昭和14年)8月23日、ドイツとソ連が不可侵条約を締結したことから始まる。その5日後の8月28日、日本では防共を目標にドイツとともに反ソ勢力の結集を目指していた平沼騏一郎内閣が「欧州の天地は複雑怪奇なり」と有名な言葉を残して総辞職する。時に外相有田八郎、陸相板垣征四郎,海相米内光政であった。9月1日、ドイツ軍がポーランド侵攻する。ただちにイギリス、フランスがドイツに宣戦布告して第二次大戦が勃発。9月17日、ソ連軍が東部からポーランドに攻め込む。ポーランドはドイツとソ連に分割された。ドイツ占領地の人口は2200万人、ソ連の占領地の人口は1300万人であった。ソ連の捕虜となったポーランド軍人の数は将校を含めて約18万人といわれ、ソ連の奥地・西部などに送られた。1945年8月、日本が敗戦した時、シベリアに送られた日本軍人の捕虜は約64万人であった。ポーランドの3・5倍に当たる。収容所で死亡した日本人捕虜は6万1855人である(軍事歴史雑誌1991年4号)。スターリンは議会で捕虜となった日本軍をシベリアに送り重労働を課した理由を「日露戦争の仇討である」と説明した。
 1939年10月ドイツ占領地のうちドイツに隣接する地域がドイツに併合され、それ以外の地域は「ポーランド総督府」と呼ばれる。ワルシャワ、ルブリン、ラドム、クラクフの4つの区域に分かれクラクフが首都となる。
 11月6日、クラクフ・ヤギェロン大学の教授たちがナチス親衛隊将校の話を聞くためという名目で集められ183人が一斉に逮捕され、ドイツのザクセンハウゼン強制収容所に送られた。無法なことが公然と行われた。
 ソ連で捕虜となった者のうち将校約1万5000人が1940年4月から5月にかけて虐殺された。映画監督アンジェイ・ワイダさんの父親もその犠牲者の一人であった。ワイダさんの母親は夫の帰りを待ちわびながらこの世を去った。ワイダ監督はその熱い思いをドイツ、ソ連の各占領地でおきた、さまざまな悲しい出来事・人間の生き方を描きつつ、映画「カティンの森」に託した(12月5日から東京・神田神保町岩波ホールで公開)。なんといっても「カティンの森」の虐殺のシーンはむごい。思わず顔をそむけたくなる。捕虜たちは貨車で運ばれてバスでカティンの森(ロシア共和国西部・スモレンスク近郊・コジェルスク救収容所・捕虜4410名)へ連行される。すでに掘られた穴へ一人づつピストルで後頭部を打ち込み投げ込まれる。それを大型シャベルが埋めてゆく。機械的な所作である。それだけに「狂気」「凶鬼」「おぞましい人間の性」「・・・」を感じる。このほか犠牲者の遺体は次の2ヶ所に埋められた。ビャチハトキ(ウクライナ共和国西部ハルキフ近郊)スタロビェルスク収容所、捕虜3739名。メドノエ(ロシア共和国トヴェリ近郊)オスタシュクフ収容所、捕虜6315名。この事実は1943年4月、一時的にドイツに占領されていたカティンで墓坑が発見されて明るみに出た。虐殺の命令はスターリンが出した。理由は1920年ポーランド・ソ連戦争でソ連が敗れたからであった。犠牲者の中にはその戦争に従軍したものが多かった。ポーランドの将校の中に助かったものが395名いる。ソ連の協力者になったからである。シベリアに抑留された日本軍人の中にもソ連に洗脳されて協力を約束したものがいたと言われた。虐殺されたアンジェイ大尉の親友イェジはソ連が編成したポーランド軍の将校となる。クラクフで夫の帰りを娘・ヴェロニカと待つアンナのもとを訪れ、親友の死を告げる。その足で犠牲者の遺品を管理するクラクフ法医学研究所に学生時代の恩師を訪ね、アンジェイの遺品をアンナに届けるように頼む。イェジは大将夫人から「カティンの森」事件の真相を知らされて自暴自棄になり酒場で暴れた末、ピストル自殺をする。アンジェイの遺品がひそかにアンナのもとへ届く。届いた遺品の日記帳には9月17日ポーランド東部プク川のほとりにあった野戦病院で夫と会い、最後の別れとなった日から殺される寸前までアンジェイ大尉が目撃した事柄が克明に記述されていた。「カティンの森」の真実がこれによりさらに明らかにされた。人間はメモを、日記を記録し残すべきである。日記は常に歴史を補足する。