安全地帯(264)
−信濃 太郎−
日本の国防方針(大正精神史・国防・軍縮2)
明治時代の国防方針は第一次世界大戦を踏まえて書き直さなければならなかった。これからの戦争は日清戦争や日露戦争のように一国を相手にした短期戦ではなく、米、露、中国を相手にした長期・国民総動員の戦争になると考えられた。そのためには軍事資源の自給自足が求められ、資源確保のため満州、中国への進出が必要となった(「新国防方針」が裁可されたのは大正7年6月29日)。
日本で初めて制定された国防方針は明治40年4月である。この国防方針では「満州および韓国に扶植した利権と亜細亜の南方並びに太平洋のかなたに皇張しつつある民力の発展を擁護するはもちろんますますこれを拡張するを以て帝国施政の大方針と為さざるべからず」とある。すでに明治末年に国家戦略の対象地域が中国、さらに東亜全域へと広がっている。この背景には陸海軍が納得するために南北併進を取らざるをえない国家戦略があった。この時すでにアメリカに備えるという考え方が出ている。
もともと初めて国防方針を提案したのは参謀本部作戦課の田中義一中佐(士官生徒8期・陸大8期)であった。彼が意見書として書いた「随感随録」に軍の戦後経営の基本として、国防方針制定の必要性を論じた。陸士出身で初めて総理大臣(昭和2年4月)になった人物である。山口県萩市生まれ、貧乏な家庭に育ち、明治16年陸軍教導団砲兵科に入隊、その年陸士に合格、在学中の成績は中位であった。卒業して隊付きとなった歩兵第一連隊では進んで兵卒と起居を共にした。変わり種であったが、勤務成績は抜群であった。陸大在学中に7人の書生の面倒を見ている。苦労人でもあった。明治31年ロシアに留学する。希望してロシア軍隊の隊付きを経験する。この時ロシア軍の弱点を見つける。革命分子とも交流を重ねた。海軍からは広瀬武夫大尉が派遣されていた。明治34年11月ロシアを訪問した伊藤博文が日露協商を説くも田中はロシアと一時的に妥協する非を直言して伊藤博文の怒りを買う。日露戦争では満州軍総司令部作戦主任参謀であった。その後、陸軍省軍事課長、軍務局長、参謀本部次長、陸相を歴任する。伊藤博文、児玉源太郎、寺内正毅など陸軍首脳をよく知り、調整もでき、能力ももっていた。明治後期から昭和初期にかけての田中の存在は見逃せない。時代が人物を呼ぶ。人物が時代を招くのか。
第一次世界大戦の際、首相は大隈重信、外務大臣は加藤高明であった。開戦3日後、同盟を結んでいる英国から参戦を要請された。加藤外相は「日本を大なる国とする得難い好機である」とし、ドイツのいる青島の根拠地をたたくだけでなく東アジア全体にわたって軍事行動を展開すべきであると力説した。大正4年1月18日、中国の大統領袁世凱に21カ条の要求を突き付けた。1、中国山東省でドイツが持っている利権を日本が引き継ぎ、日本が鉄道を作る権利を認めること 2、旅順、大連の租借期限と満鉄安奉線の期限をさらに99年間延長し、東モンゴル圏を日本の勢力圏とすること 3、漢陽、大冶,萍郷の鉄と石炭を日本が独占すること 4、中国の沿岸と島を外国に譲らないと中国政府が宣言すること 5、中国政府の顧問として日本人を招くことなどであった。
当然、中国から反発を受け、日本商品のボイコットなど排日運動が高まった。アメリカやイギリスの強い反対もあって日本は5項を取り下げてその年の5月9日、中国側は日本の要求をのんだ。イギリス、フランスなどが対ドイツ戦に懸命に闘っている時、日本が極東で自己の利益のみ追求する姿をイギリス国民は「日本は本質的に侵略的な国家であり、日本は自分の将来に偉大な政治的未来があると信じている・・・」ど映ったようである(黒野耐著「日本を滅ぼした国防方針」文春文庫)。
当時の日本にとって中国は経済・貿易からみて欠かせない存在であった。日本の繊維製品の50%以上を占める市場であった。石炭、鉄などの資源が豊富にあった。ヨーロッパ諸国と違って日本は遅れてやってきただけに焦りは隠せなかった。やり方が強引とも見えた。「対華21ケ条要求」は日本が中国進出を具体的な形で表明した初めてのものであった。すでに中国へ進出していた欧米諸国と衝突するのは運命にあった。
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