安全地帯(262)
−信濃 太郎−
普選法をめぐる原敬内閣と加藤高明内閣(大正精神史・政治編・普選法改正・2)
大正8年には学生も一般人も普選運動に参加して大きな高まりを見せた。2月11日の集会・デモには東大、早大ら18校の学生が参加する。3月1日のデモには1万人が参加、銀座通りなどを練り歩き気勢を上げた。難波大助が参加したのは大正9年2月11日芝公園で開かれた普選促進大会である。会場から原敬首相邸までのデモに加わっている。
この日の「原敬日記」には「上野並びに芝公園より普通選挙示威運動と称して群衆二重橋に至りたる由、新聞には5万人また10万人などと称するも実際は5千人計りなりという。去4日並びに8日には余の宅に多数来り其総代に面会せしが今回は来らざき」と書いている。新聞の集会参加人員の“過大報道”はこのころからのようである。
政界の対応はどうか。全般的には「時期尚早」の雰囲気であった。昔も今もこの言葉は何もしないと同じ言葉である。「現状維持」と同意語である。
原敬内閣(大正7年9月29日から大正10年11月13日)は陸海軍大臣を除いて全閣僚政友会であった。野党の犬養毅率いる国民党は「有権者は直接国税2円(それまでは10円)以上納めるもの及び中学卒業以上の学力あるもの。選挙権は満20歳以上の男子とする」という普選案を主張した。第2党の加藤高明が総裁の憲政会は「有権者は独立の生計を営む者」として学生を排除する案を示した。原敬内閣は「有権者は直接国税3円以上納める者に限る」とする一方で従来の大選挙区割制を小選挙区制にした。こうしておけば有産階級が無産階級に選挙で負けることがないという原敬の腹のうちであった。
この選挙法の改正は明治22年選挙法が制定されてから二度目であった。一回目は明治33年、小選挙区制から大選挙区制にかわり、有権者の納税要件が15円から10円に下がった。大正9年2月の議会に憲政会、政友会、国民党から普選法案が提出された。原敬は野党の普選法案には社会組織に脅威を与えようとする不穏な思想が潜んでいるとして否決、政府原案の普選法を成立させて議会を解散してしまった。
小選挙区制になったこと、納税要件が10円から3円に緩和されたことによって有権者が140万人から290万人に増えた。このため新有権者が郡部に多く、農村が地盤の与党・政友会に有利であった。大正9年5月の総選挙の結果は与党政友会の圧勝であった。民政党は162議席から279議席に伸ばし過半数を上まわった(定数464議席)。憲政会110議席、国民党29議席であった。普選案は後退を余儀なくされた。
原敬首相が大正10年11月13日東京駅で凶刃に倒れた後、高橋是清の暫定内閣、ついで海相を4度も務めた加藤友三郎海軍大将が元老の後押しで首相になる。加藤大将の病死で加藤内閣は10ヶ月足らずで終わる。第二次山本権兵衛内閣ができるも「難波大助事件」で責任をとって4ヶ月足らず、さらに清浦圭吾内閣が誕生するも第2次護憲運動が起き、5ヶ月の短命内閣に終わった。本来憲政の常道からいえば原敬首相の後は野党第一党の憲政会総裁加藤高明であったはずである。それを元老、貴族院が政友会内閣の後、「貴族院内閣」を作り、政友会までが政党内閣の成立を阻止して、その後押しをした。
加藤高明内閣ができたのは大正13年6月11日であった。政党内閣制に戻るまで2年6ヶ月も遠回りをした。加藤高明内閣は3党連立内閣であった。憲政会153議席、政友会105議席、革新倶楽部30議席であった。加藤が公約に掲げたのは普選法の成立、綱紀粛正、行財政整理であった。政友会の高橋是清は農商務大臣、革新倶楽部の犬養毅は逓信大臣で入閣する。組閣にあたって加藤は「いずれ連立内閣は壊れる時が来る。その時国民に納得させて分裂するには大衆に人気のある犬養を道づれにしたほうが得策と考えた」という(寺崎峻著凛冽の宰相「加藤高明」・講談社)。
連立政権の歴史・内幕を調べてみると面白い。ポストを要求する相手方に抑えの利く人物に説得してもらったり、片方の党首を入閣させることで他の党首も入らざるをえないように仕向けたりする。今回の総選挙(平成21年8月30日)で308議席を獲得した民主党は社民党(7議席)国民新党(3議席)と連立を組み、鳩山由紀夫内閣には社民党と国民新党のいずれも党首が入閣した。
加藤高明内閣が有権者の欠格条件をめぐって衆議院と貴族議院の折り合いがついたのは大正14年3月29日であった。これで日本の近代化へやっと歩を進めた。それでもまだ女性の参政権は認められなかった。