2009年(平成21年)10月01日号

No.445

銀座一丁目新聞

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花ある風景(360)

並木 徹

石炭が取り持つ上原勇作元帥とフランス名門との交流

 喜びの握手をかわす、ペアトロ会長(右)と上原尚作君
喜びの握手をかわす、ペアトロ会長(右)と上原尚作君
 

 9月の去る日、友人中山毅彦君、広野恵三君とゴルフを楽しんだ。広野君が43,42で回り、エイジシュートを出しためでたい日でもあった。プレーの合間、中山君から上原勇作将軍に絡まる面白いエピソードを聞いた。中山君が四国電力燃料部長時代、豪州のWambo社と石炭輸入契約をした。Wambo社の会長の母方の曽祖父が若き日にフランスに留学した上原勇作元帥と友情を深めたことがあり、訪日の際、その孫である、中山君と同期生の上原尚作君と劇的な対面を果たしたという話である。詳しいことは丸紅の社内紙に詳しいから送るよということであった。
 上原勇作元帥は士官生徒第3期生(卒業は明治12年12月・卒業生96名)。若い時、野津道貫大将のもとへ書生で入り、陸軍を志した。工兵科の恩賜である。同期生に日露戦争で騎兵旅団長として活躍した秋山好古がいる。陸大(明治16年に開校)がなかったので1881年(明治14年)フランスへ留学、フランス陸軍に学び、工兵の近代化に貢献した。日露戦争では野津道貫大将が軍司令官の第4軍の参謀長を務めた。陸軍大臣、教育総監、参謀総長と陸軍三長官を経験している。子爵。夫人は野津大将の娘である。
 社内報「まるべに」(1986・12月号・NO403)によると、丸紅の電力用炭部では豪州のWambo炭を年間90万トン輸入し四国電力を始め電力各社に納入している。1986年(昭和61年)8月、豪州を訪問したエネルギー第二本部長がWambo社のペアトロ会長から数葉の写真を見せられた。写真に写っていたのはフランスのグルノーブルに砲術の研究のために留学されていた若き日の上原勇作元帥であった。ペアトロ会長はその年の1月、フランス石炭公社から派遣された方であった。フランス名門の出身で母方の曽祖父シュバィッアーが留学に来ていた上原元帥(当時25歳)と親交を結び、友情のしるしとしてその写真が大切に保管されていたという。ペアトロ会長は出来たら上原元帥のご子孫にお会いしたい希望を述べられた。調べた結果、上原元帥の孫・上原尚作君の居所が分かった。
 その年の10月はじめ、丸紅16偕特別食堂でペアトロ会長と上原尚作君との一世紀を経た「日仏親善・友情の夕食会」が開かれた。二人が感激の握手を交わしたことは言うまでもない(写真参照)。夕食会の主催者は丸紅のエネルギー本部長、竹村豊専務であった。竹村専務は中山毅彦君、上原尚作君と陸士の同期生である。当時中山君は四国電力取締役・東京支社長であった。戦後41年、このころ同期生は商社、電力など各方面で日本再建のためにひたすらに活躍していたのをかいま見ることができる。
 ちなみに当日のゴルフのスコアは中山君が53,55、私が58,57であった。スコアよりもプレーの合間に交わす話がなんとも言えず楽しい昨今のゴルフである。