1998年(平成10年)9月10日(旬刊)

No.51

銀座一丁目新聞

 

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連載小説

ヒマラヤの虹(21)

峰森友人 作

 モージャ村の標高は約一七〇〇メートル。闇と共にアンナプルナ連峰から重い冬の寒気が下りてきて、村と言わず谷と言わず征圧する。人以外の生き物はその支配に屈服して、朝の光が闇を追い出すまでじっと息をひそめるのである。

 ドルフェルディのインディラと同じように、百合もまた灯油ランプの小さな光を頼りに、庭先の石の上で野菜を洗い出した。自分の頭につけたヘッドランプを点灯した慶太は、野菜洗いの手伝いを申し出た。部屋の中の瓶に入っていた水は冷たかった。その冷たさがふっと、ヒマラヤの雪を潜り抜けてきたせせらぎの水で体を拭っていた百合の姿を思い出させた。生活の不自由を百合はよく我慢したと言った美穂子の言葉が頭に浮かんだ。

 百合は部屋の奥につくられたかまどの横で灯油コンロを使ってご飯を炊き、ガーリックスープを作った。

 いつ覚えたのか、百合が料理したダールバートとガーリックスープの準備が整った。百合はそれをトリジャと自分が使っている食器に盛り分けた。家主からもらってきたロキシーもちゃんと用意されている。かまどの前のわずかな隙間の土間にステンレスの食器が二組並んだ。百合は暖を取るためにかまどで小さな火をおこすと、灯油を節約するためにランプを消した。かまどの炎が揺れると、それがステンレスの器に反射して、まるで豪華なレストランのローソクが生み出すような雰囲気を醸し出した。すべての準備が終わると、百合はベッドの下から引き出した古びた毛布を敷いて、慶太に座るように勧めた。自分はかまど寄りに、いつからそうしているのか、武士のようにサリーの中で片膝を立てて座った。その時百合は慶太がまだ登山靴を履いているのを見つけた。

 「あらあら、土足のまんまこの神聖な食堂に・・・」

 百合はまるで行儀の悪い子供をたしなめるようなおどけた口振りで言った。慶太はあわてて外に飛び出した。ばつが悪そうな笑いを浮かべて、登山靴用の靴下で戻ってきた慶太に、百合は、

 「申し訳ありません、大事なお客様に押し付けがましいことを・・・」

 と言って、立てた膝の上に両手を揃えて、頭を下げた。

 「僕の方こそ、失礼しました。でも無知というのは怖いな。トリジャの家でも、ついトレッカーみたいな態度で土足で囲炉裏の傍に足を投げ出して座り込んでしまった・・・。それにしても、春は僕が多少なりともネパールについての先生だったのに、すっかり攻守が入れ替わっちゃった」

 「申し訳ありません」

 百合はまたちょこんと頭を下げた。揺れる炎で小さな笑みも揺れた。

 百合が注いだロキシーで乾杯した。二つのステンレスのグラスはにぶい音をたてた。慶太がロキシーをなめていると、百合は炒めた野菜のタルカリを指でつまんで口に入れた。続いて、皿に盛り上げたご飯の上にダールスープを少しかけると、スープとご飯を指で器用に混ぜ始めた。炎が百合の顔の半分を照らしている。百合はその顔を土間に置いた食器に覆い被さるように近付けたかと思うと、右手の指に載せたご飯をひょいと口に運んだ。タルカリとダールスープで味付けされたご飯を口の中でゆっくりと混ぜ合わせるように二度、三度噛んで、

 「ああ、おいしい。今日は格別の味です」

 と、ほっとしたように顔を上げた。そこには不思議なものに見入る慶太の顔があった。

 「あら、恥ずかしい。すっかりネパール人になったのをお見せして・・・」

 百合は自分の行為を突然無作法と感じたのか、ロキシーと炎で赤く染まった顔をいっそう赤くした。ロキシーをなめながら炎に揺れる百合にじっと見とれている慶太に、

 「ロキシー、おいしいですか」

 と聞いた。それはカトマンズで百合が口にした言葉だった。

 「ハイ、とっても」

 慶太はまた一口ロキシーをなめると、自分もダールスープの器を持ち上げ、それを大盛りのご飯の上にかけた。そしてぎこちなく親指、人差し指、中指で混ぜ始めた。百合はそれを楽しむように見ていたが、体を伸ばしてかまどの横の食器置き場から、少し凹凸のついたアルマイトのスプーンを取り出すと、

 「ハイ、お客様にはやっぱり武器が必要なようですわ」

 と差し出した。慶太がスプーンでやっと普通に食べられるようになったのを確認すると、百合は再び器用に指を使って、ダールバートを食べた。

 「あなたがこんなに変わるなんて、本当に別な人を見ているみたいだ」

 「そうですね、私もちょっぴり苦労をしましたからね。でも自分で選んだ道ですから。とってもいい経験をしました」

 百合はこう言って、自分から一大変身した生活について語り始めた。

 

 岩崎との一件は手紙に書いた。この事件があって、岩崎と毎日顔を合わせるような特派員生活は耐えられないことははっきりした。大山との別れ話しやその手続き、一度にさまざまなことが重なって、一人になる時間、気持ちを整理する場所が必要となって、長期休暇を取って旅に出た。カトマンズでたまたま佐竹さんにお会いしなかったら、私はやはり東京に戻って、元のディレクター生活を続けることになっていただろう。組織の中では、組織の力をうまく利用できるものの方が強い。私が岩崎との一件で騒ぎの主になることを考えないではなかったが、彼が相手では自分の仕事も生活も大いに犠牲にして、結局はただ自分が消耗してしまうだけになる。私が辞めたことで、岩崎もほっとして、日本のマスコミを代表する顔をしてアメリカの生活をエンジョイしていることでしょう。

 私はディレクターの仕事に誇りを持っていた。夜も週末も働いて組織には大いに貢献した。もちろん組織はそれなりに評価してくれた。しかしそれはジャーナリストとして、一体だれのために役立ったのだろうか。視聴者という大衆に役立つ仕事をしたというより、JTSという組織に役立っただけではなかったのか、いや直接関係するラインのプロデューサーや上司たちに役立っただけではなかったのか。

 日本にもいたことのあるアメリカの記者が書いているが、テレビの報道は、往々にしてひどいことをする。何かを狙うと、まるでヘリコプターで急襲するように飛び込んでいって、狙ったものを手にすると、またさっと飛び立って逃げ出す。それを放送するともうそれっきり、また新たな獲物をかっさらいに行く。その繰り返し。 特にニュースショーというのは。もちろんそれが社会に役立つこともあることは否定しないが、基本的には、視聴者の興味をいかに煽るか、そしてそれにいかに迎合するかがテレビとも言える。それがジャーナリズムだと言えば、そうだが、私には何かが欠けているという気がしてならなかった、

 トレッキングの前日、ポカラの国連事務所を出る時、美穂子さんを見かけた。クルタクロワールを着ていたが、私にはすぐ分かった。美穂子さんは赤十字の車から降りてきた。美穂子さんはこういう活動をしているんだ。ロンドン時代も歳はわずか四、五歳しか違わないのに、はるかに先輩という感じの人だった。いつも堂々として、ほとんど一時の感情に支配されない。そして不自由な途上国の生活をものともせず、立派に個人的存在を生かした活動をしている。美穂子さんは私のあの時の境遇を話すには最適の人だった。

 佐竹さんと別れてすぐポカラの赤十字に問い合わせた。美穂子さんがカトマンズにいることが分かって、すぐに会いに行ってすべてを話した。ええ、佐竹さんと突然トレッキングに行ったことも。美穂子さんは驚いていた。彼女は、あなたは大人しく思慮深そうに見えて、実は普通の人にはとても出来ない大胆なことをすると言った。その気配はロンドン時代にも十分あって、目の離せないタイプだったって。きっとそうだと思う。私はこれと思うと、闇の中でも手探りで進もうとする。しかしその危なっかしい部分を本当はだれかに支えていてもらわなければならないの。ちょうど洞窟探検家が経路ロープだけはつけるように。

 私は美穂子さんに話した。私はこれまでそれなりにやりたいことを華やかな世界でやってきた。でも今自分は一体何者なのかという疑問にぶつかっている。それがもう少し分かるまで、東京を離れ、今までの仕事を離れた時間を持ちたい。経済的には自分で責任を持つから、ネパールで何か仕事をさせて欲しい。

 美穂子さんは、私が本気なら力になると言ってくれた。本当に自分のお金で動けるなら、すぐ始められる、と言う。そして釘をさされた。ジャーナリストは一つの悲惨なケース、一人の象徴的な悲劇をクローズアップする。それにより大衆は心を動かされ、目を開かれる。しかし国際官僚組織や政府は、人間的な心温まる話しよりも、紙に書いてスキのない話しが好きだって。

 モンスーンが近いこともあって、まず東部へ行った。ビラトナガルという町を基地にして、そこから山間部や低地の村を回った。農家や民家を訪ねて、主婦や娘たちがどういう生活をしているか、向上させるには何が必要か、具体的に調べて共通事項や対策を整理するのです。村の奥に入っていくと、北に見えるジャヌーやカンチェンジュンガが美しかった。

 ある日、お茶で有名なイラムの奥に入った。突然モンスーンの走りの大雨が来て、雨の中を苦労して下りてきたら、朝渡った谷の吊り橋が流されてなくなっている。それどころか岩やら何やら、物凄い勢いで流れてきて、とても川を渡れない。仕方ないので、また山を登って、山の中で野宿して、山を越えた向こうの谷に次の日下りて来るということがあった。野宿の晩は食べるものがなく、次の日の昼過ぎに農家でやっと少し食べさせてもらって・・・。命拾いしました。

 モンスーンが来てからは、カトマンズ近くの村を回った。このあたりも山というほどではないが、丘陵地帯でそれなりに大変だった。

 

 食事も終わり、百合はかまどにかけてあった鍋で沸騰している湯を使って、紅茶を入れた。

 「確かブラックティーでしたわね。佐竹さんのお好みは。トリジャと飲む時は、お砂糖を少しいれるんですが、今日は私も何も入れずに」

 紅茶がすむと、しばらくロキシーを飲んでいてくださいと言って、百合は食器を集め、それを持って外へ洗いに行った。慶太が手伝うと言ったが、勝手の分かっている自分がやった方が速いからと言って出て行った。しばらくすると、

 「ああ、やっぱり外は寒いです」

 百合は体を震わせながら戻ってきた。

 「佐竹さんがいらっしゃったので、実はおめかしをしようと思って、このサリーを着たのですけど、これ化学繊維なんです。その方がきれいな色に染まるし、値段も安いので若い人は好んで着るんですけど、まるで紙みたいなんです。ほら」

 百合はこう言って、慶太の手を取って、膝のあたりのサリーを触らせた。その時慶太は思い出して、入り口近くに置いてあった自分のバックパックから紙包みを取り出してきた。

 「今の話しを聞いて、ちょうどよかった。お土産です」

 慶太から包みを受け取った百合は、包み紙をいためないように丁寧に開いた。

 「まあ素敵。柔らかい。暖かそう」

 それは慶太のすむ町の近くのモールで買ってきた英国メーカーの黒のカシミアのカーデガンだった。黒は百合の色である。百合は早速サリーの上にそれを着た。かまどから流れるわずかな明かりの中で、カシミヤはつややかだった。細い百合の体に欧米人のサイズは大き目だったが、それがかえって体の自由もきき、くつろぐのにはふさわしいようだった。

 「まあ、色は私が注文したみたいです。このサイズだとクルタの上から着ても楽な感じです」

 百合はカーデガンを脱いで、丁寧にたたむと、

 「高価なものをどうもありがとうございました。実は私カーデガンを持ってきていないんです。それに冬物を取りに帰る機会がついないままに。とっても助かるわ」

 百合は慶太の顔を見て、たたんだカーデガンを両手で押し頂くようにした。

 「久しぶりの山歩きでお疲れでしょう。この私のベッドを使っていただいて、私は二階のトリジャのベッドを使いましょう。私はまだまだ聞いていただきたいお話がたくさんありますけど・・・」

 「いや疲れなんかない。それよりあなたさえよければ、僕も続きの話しを聞きたい・・・」

 「それじゃ、こうしましょう。このかまどの前に二人の寝袋を並べましょう。かまどの火も残っていて暖かいし。ベッドの上と下では遠くって話し難いですもの」

 慶太は心の中では一瞬戸惑った。しかし百合がそれが最善で当然であるかのように言うので、黙っていた。百合は食事の時にマットとして使っていた毛布を広げると、その上にベッドの上に巻いてあった自分の寝袋を広げた。それをかまどの側に押しやって、ベッドとの間に出来たスペースの広さを推し量りながら、

 「さあ、ここにどうぞ。ちょっと窮屈でしょうけど、このロッジは無料ですから、我慢して下さい」

 と言った。慶太も自分の寝袋を広げた。アメリカ製のそれは、さすがに大きく、百合のはまるで子供用に見えた。

 「まあ大きな寝袋。春もこれをお使いだったんですか」

 慶太はうなずいた。

 百合はかまどの火をもう一度見ると、自分の寝袋の横に座って、

 「すみません、しばらくあっちを向いていて下さいますか」

 と言うので、慶太がそれに従うと、後ろで衣擦れの音がした。サリーを脱ぎ、寝支度をしている。春は板壁の向こうの衣擦れの音にも緊張したが、今はその板壁すらない。しばらくすると、

 「ハイ、もういいです」

 という声がした。振り向くと、百合は自分の寝袋に入っていた。慶太もセーターを脱ぎ、ズボン、靴下を脱ぎ、ヘッドランプを枕元に置くと、寝袋に入った。

 「山の中を回っている時は、トリジャとこうして並んで寝ることがほとんどなんですよ。疲れているから、寝袋に入ると、二人ともすぐ眠っちゃう。でもここに戻ってきて、二階と下とに分かれて寝ていると、やはり東京のこととか、昔のこととか、それにトレッキングをしたことなどをつい思い出して、一人泣いたこともあります」

 慶太は百合の方に横向きになって、かまどの残り火のわずかな明かりを後ろから受ける百合の顔をじっと見詰めた。慶太に見詰められた百合は恥ずかしそうに、仰向けに半回転すると、残り火を映す天井の揺らめきを見詰めた。

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