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小さな個人美術館の旅(47) 相原求一朗美術館 星 瑠璃子(エッセイスト) 帯広駅前から広尾行きのバスに乗った。十勝港のある広尾までは二時間ほどかかるという。朝九時のバスに乗ったのはたった三人で、いまは廃止になった国鉄広尾線の有名な駅「幸福」を過ぎる頃には私一人になった。道の両側は麦畑の金色の海。ところどころにジャガイモの白い花が波のような帯になって咲いている。そんな一本道をうっとりとバスにゆられて中札内(なかさつない)で下りると、美術館の高瀬佳郎さんが迎えにきて下さっていた。バス停のすぐ近く、国道に沿って涼しげな林が広がっている。19ヘクタールという広大なその林の中に三つの美術館が点在しており「中札内美術村」という。相原求一朗美術館はその一つだった。 「ここです」 と高瀬さんが立ち止まった小径の奥の木の間隠れに、メルヘンの館のような建物がひっそりと立っているのが見える。青々と枝を広げる丈高い林は全てカシワの木だそうで、樹齢五、六十年とか。下草が繁り、色とりどりに野の花が咲き乱れている。ハンゴンソウ、カラマツソウ、ツリガネニンジン、ヒメジョオン……。 「この間までは、スズランの香りでむせかえるようでした」 高瀬さんが明るい声で言う。コウゾリナ、ヨツバヒヨドリ、ナデシコ……。花の名を数え上げてこどものような歓声をあげながら木道を行くと、全貌を現した美術館は重厚な石づくり。クラシックでいながらどこかモダンな不思議な建物だった。 「洒落てますねえ」 と感心すると、 「お風呂屋さんだったんですよ。帯広の」 とのことでびっくりしてしまった。北海道とは不思議なところだ。郵便局を移築改造したという軽井沢の美術館には行ったことがあるが、お風呂屋さんというのは初めてだ。それに、こんな素敵な銭湯なんて見たこともない。
1927年(昭和2)に出来たという「帯広湯」は札幌軟石づくりの大きな総二階。長い間人々に親しまれてきたが、廃業した後も建築史上貴重な建物ということで永久保存が求められていたのを地元の老舖「六花亭製菓」が譲り受け、かねてより同社が運営する美術村の敷地内に移築復元して相原求一朗美術館としたのである。中へ入ると、一階は広々した二つの展示室からなり、ロビー(ここが脱衣場だあったのかしら)から入ってすぐの部屋が「北海道十名山」の常設展だ。 旭岳、利尻岳、阿寒岳、羅臼岳、十勝幌尻岳……。この美術館のために画家が渾身の力をこめて描き下ろしたいずれも八十号から百号はありそうな北海道の山々が、天井の高い展示室にゆったりと並んでいる。「山峡新緑」と題する羊蹄山、「早暁」の十勝岳、それに「春宵」と名付けられた斜里岳が私には特に印象に残った。羊蹄山は、昨日発ってきた積丹半島の付根の町からちらりと見た山なので格別懐かしいのである。洞爺湖近くから描いたものというが、なんという柔らかくやさしい山容だろう。斜里岳は画家も一番好きな山だとか。そして、右に富良野岳、左に美瑛岳、トムラウシ山、白雲山を従えて噴煙を上げる真冬の十勝岳「早暁」は、思わずいずまいを正す神々しいまでに厳粛な風景だ。 1918年(大正7)埼玉県川越市生まれ、いまもそこに住む洋画家相原求一朗が北海道にめぐりあったのはほんの偶然だった。それまで抽象画を描いてきた相原は、新制作展で思っても見ない落選の憂き目にあい、失意の中に北海道を訪れたのは1961年のことだった。この地は戦後間もない十数年前にも一度来たことがあった。車窓から、海に沈むすさまじいばかりの落日の光景を見た。それは戦時の五年間、一兵卒として満州の荒野で眺めた夕日に似たあまりに絢爛豪華な落日であった。今度もここで絵を描こうというのではなく、ただあのおおらかな大地に立ってみたい、という思いだけでやってきたのだった。その辺りのことを後に相原は次のように書いている。 「根室本線に乗って帯広に向かう途中、狩勝峠を眼下にしたときのことである。秋の真っただ中で紅葉した落葉樹林、暗い緑のえぞ松やとど松、銀色に輝く芒の原、それらが渾然として、広大な美しい絨毯の色面をつくっている。私はそのとき、具象の形態が抽象の画面を構成している、と考えた。 そのとたんにフッと物の怪が落ちたように、今まで抽象でなくてはならない、と頑なに考えていた呪縛から解き放たれた想いで、これからは、自分自身の絵を自由に描こうと心に決めた」(「造形と情感の北海道」) 以来四十年近く。ある時は長靴の底に懐炉を入れ、それでもにわかに吹雪き、全身が凍りついて地蔵さんのように硬直しながら、もはや「体の一部になってしまった」北海道を描き続けた今年八十歳の画家の作品が、いまこの一堂に会しているのである。北フランスのノルマンディー、ブルターニュ、エトルタの岬やドーバー海峡など相原求一朗の主題は他にも多いが、原点はこの「北の大地」。その北海道はまさに絶唱だ。階下のもう一室も北海道ゆかりの作品ばかりで、時折入ってくる人々が、静かに語らいながら立ち去りかねたように館内のそこここに佇んでいた。 高瀬さんの案内で、相原美術館のさらに奥にある関口哲也写真ギャラリー、小道を隔てた向かい側の坂本直行記念館と、こちらは北海道出身の写真家、画家の美術館を回って私はふたたび帯広行きのバスに飛び乗った。広尾まで行ってみたい、そう思いながら時間がなかった。広尾には海沿いに「黄金道路」と呼ばれる道があり、断崖絶壁を日高山脈が海に没する襟裳岬まで走っているという。戦中戦後の一時期、幼い日をそこに過ごした友人がよく話していた。 北海道が好きだ。どうしてこんなに心魅かれるのか自分でも妖しいほどに、そこを思うだけで心ときめく。相原求一朗の絵も、この壮大な自然への果てしない憧憬の結実なのではあるまいか。
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