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安全地帯(255)
−信濃 太郎−
岩波茂雄「こころ」を出版す(大正精神史・出版編)
岩波茂雄は大正2年8月5日、神田神保町に古本屋を開業する。開店案内の挨拶に次のような詞を付した。
桃李云はざるも下自らみちをなす。
低く暮し高く想う。
天上星辰の輝くあり、我衷に道念の蟠るあり。
此地尚美し人たること亦一つの喜びなり。
正しき者に患難多し。
正しいかる事は永久に正しいからざるべからず。
正義は最後の勝利者なり。
これは日ごろ岩波茂雄が好んだ格言である。反響を呼んだ(安倍能成著「岩波茂雄伝・岩波書店」)。資本の8千円は郷里の田畑を売ったお金である。開店当初は2千円の古本で店を飾った。お客はさまざまで、値切る客が多かった。商売のやり方はなるだけ高く買ってなるだけ安く売るというにあった。これが一高の仲間から最も商売人に不向きな男といわれた岩波茂雄の商売の秘訣であった。岩波古本屋の大事件は大正3年から4年の初めにかけて台湾総督府立の図書館から当時のお金で1万円の図書購入を一手に託されたことである(毎日の売り上げ10円ぐらいであった)。岩波茂雄と一面識もなかった館長の太田為三郎が日比谷図書館長の今沢慈海と相談して決めたものであった。岩波茂雄が心ある人々から信用されていたということである。
夏目漱石が朝日新聞に大正3年4月20日から8月11日まで連載した「心 先生の遺書」を自費出版した(定価1円50銭・300部)。岩波茂雄にとって最初の出版で、岩波の大をなす基礎になった。33歳の時であった。当時第一流の流行作家の作品を出したというので世間の信用はつくし、その後「硝子の中」「道草」を引き続き出版し漱石全集の出版元になる素因をつくった。「こころ」の出版は岩波茂雄が漱石ものを出したいという意向もあったが、他からもうるさく頼んでくるので漱石が自費出版でもするかという気になったのだという。
「こころ」は漱石が乃木希助大将の殉死に影響されて書いた作品といわれる。友人の恋する女性を奪った先生が罪悪感にさいなまれ、ついに死を選ぶという話である。エゴイズムと友情の葛藤の物語である。「こころ」が出版されてから91年後の2005年(平成17年)藤原正彦はその著書「国家の品格」(2005年11月20日発行)の中で次のようなエピソードを紹介する。ケンブリッジ大学で研究生活中にイギリスの著名な教授から質問を受ける。「夏目漱石の『こころ』の中の先生の自殺と、三島由紀夫の自殺とは何か関係があるのか」。藤原正彦は武士道か何かを持ち出して「死の美学」について乏しい知識を動員して何とかごまかしたという。漱石の「こころ」は昭和の時代になっても「坊ちゃん」「草枕」とともに岩波文庫で版を重ねる。「こころ」が脈々と生きながらえているのに驚く。
漱石は大正5年12月9日午後6時50分、50歳で死去する。弟子の内田百閧ヘ当時陸軍士官学校のドイツ語の教官で、翌日の10日は陸軍士官学校の新入生入校式(陸士30期生・657名)であった。9日、夏目漱石家で一夜を明かした内田百閧ヘ家へ車屋をやってフロックコート、山高帽子、薄色の手套等式に必要な一式を取り寄せて夏目家から市谷本村町の陸軍士官学校へ出かける。この日、10日は午前11時45分、日露戦争の軍司令官大山巌元帥が亡くなっている。「その報道が陸軍士官学校の中で大きく響くのは当然である。しかし、教官室の同僚のだれの口からも漱石先生の訃を悼む声を先に聞いた」と内田百閧ヘ書く(私の「漱石」と「龍之介」・ちくま文庫)。
内田百閧ヘ入校式が終わった後、語学講堂へ出かける。ところが教壇に上がり損ねて転倒、生徒の前で醜態をさらけ出す。生徒は起立したまま笑わない。正月になって年賀に訪れた生徒にその理由を聞くと「人の失策を見て笑ってはならぬ」と教えられておりますと答えたという。陸士30期には磯村武亮中将がいる。陸大首席(陸大39期)中部軍管区参謀副長在任中昭和20年8月10日戦死する。歩兵2連隊長中川州雄大佐は昭和19年11月24日ぺリリュー島で玉砕、二階級特進して中将となる。岩畦豪雄は大佐時代、陸軍軍事課長として政治手腕を発揮した。中野学校創立を主張し、その貢献者でもある。中国問題に詳しいというので、昭和16年2月米国に出張、野村吉三郎大使(外務大臣・海軍大将・海兵26期)を補佐して日米交渉にあたったが,帰国後対米不戦を説いて近衛歩兵5連隊長に飛ばされる。この後再び中央に戻ることはなかった。
岩波茂雄の大正年間の出版の業績は高く評価される。大正4年10月「哲学叢書」創刊大正6年5月阿部次郎主幹「思潮」創刊、6月倉田百三著「出家とその弟子」刊行、11月西田幾太郎著「自覚における直観と反省」12月漱石全集(全12巻)予約刊行、大正7年6月阿部次郎著「合本三太郎の日記」刊行、大正10年10月雑誌「思想」創刊、12月寺田寅彦・石原純編集「通俗科学叢書」刊行、大正12年10月、鳩山秀夫著「日本民法総論」河合栄治郎著「社会思想史研究」津田左右吉著「神代史の研究」を刊行。
昭和21年4月25日死去、享年65歳であった。今、北鎌倉東慶寺に眠る。
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