花ある風景(353)
並木 徹
友人、百瀬涓君の自伝に感あり
友人、百瀬涓君から自伝「私の歩んだ道」をいただいた。百瀬君は昭和24年4月、東大経済学部を卒業して警察幹部採用試験に合格、警察の道に進む。ハガキには「巡査からの交番勤務この辺が自分史の山です。大病した時、孫たちに何か残そうと思い『私の歩んだ道』を書きました」とあった。私と同じく大正14年で、彼は8月1日、私は8月31日生まれである。ともに父親は長野県人である。何となく彼に親近感を抱く理由である。長野県波田町の梓川のほとりで生を受けた彼の父親は、台風になっても濁ることのない梓川の清流からわが子の名前を涓・きよしと名付けた。子供時代は喧嘩が強かった。6人兄弟の二男である。兄浩さんは陸士56期生の大尉、百瀬君より3期先輩である。敗戦を南方で迎え、戦後は航空自衛隊に入り予算班長を務め1佐まで進んでいる。
百瀬君は警察官僚として数々の要職を務めるが原点は交番勤務だという。社会部記者の原点が「警察回り」であるのと同じであろう。階級は巡査として立川地区警察署南砂川交番に他の2人の東大卒のものと配属された。柏田新兵衛署長に言われた。「君たちは東大を出て立派な学歴をもっているが警察官には良い学歴は必要ない。猫はネズミを捕ったら役に立つ猫だと評価されるように、警察官は泥棒を捕まえなければ意味はない。泥棒を捕まえたら内勤にしてやる」。ここで彼は多くのことを学んだ。警察の第一線は国民生活とともにあり、人々の日々の生活を見ることで、人の生き方を肌で感じたり、仕事として人と接し、頼られることはやり甲斐のある事と思ったりした。犯人検挙で3回署長賞を受ける。高知県警務課長時代には各市町村間の警察官の給与格差をなくすために努力し、共済制度を運用して警察官のための住宅建設に力を尽くす。昭和32年、32歳で警視庁神田署の署長になる。30人ぐらいの署員で1000人ぐらいのデモ学生を相手にして「元気の良い署長」と評判をとる。作戦要務令が参考になったのであろうか。アイデアマンでもある。奈良県警本部長時代、大阪万博で配備されていたガードマンが万博終了後近畿各県に配備されると聞くと財政的に余裕のある神社や仏閣に警備力不足を補うためにガードマンを雇うことを提案したり、増加する駐車違反を取り締まるため導入した婦人交通巡視員の中から勤務成績の良い者を内勤に採用したりする。北海道警察本部警務部長の時には駐在の自転車は冬期雪で役に立たないのでバイク配備を決めている。道庁勤務の職員や教員に比べて警察官の給料が低かったので給料改善にも取り組み是正した。
「真面目な人間が警察の仕事につけば一生大丈夫だとの安心感を抱くことで職務にまい進できるようにする」というのが百瀬君の持論。百瀬君の面目躍如たるものがある。
平成16年8月、最愛の夫人若子さんをなくし意気消沈し、その後彼も大病を患い会合にも出てこなかった百瀬君がこのほど(7月2日)都内で開いた会合に元気な顔を見せてくれたのは嬉しいことであった。
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