安全地帯(254)
−信濃 太郎−
平民宰相、原敬の誕生(大正精神史・政治編)
寺内正毅内閣がおかみさんたちの米騒動の社会不安で責任を取り総辞職すると原敬が首相の座に就く。大正7年9月20日である。はじめ山県ら元老たちは西園寺公望に組閣を命じた。山県らは米騒動に見せた民衆の力におびえ、この際抑え込まないといけないと手堅い手腕を見せる西園寺に白羽の矢を立てた。時勢を見るに敏な西園寺は「毛色の変った内閣でしばらく時を稼ぐのが良策でしょう」と進言して原敬が誕生した。原敬が総裁を務める立憲政友会は寺内内閣時代に行われた総選挙(大正6年4月20日)で158議席を取り、これまで第一党であった加藤高明が率いる立憲憲政会を119議席に追い落としていた。原敬は山県が押す田中義一を陸相に、海相には加藤友三郎(留任)、外相に親友の内田康哉と、それなりの気配りを見せたほかはすべて政友会の党員を当てた。ここで政党の党首が首相となり自党で内閣を固める政党内閣が日本で初めて誕生した。記念すべき他の閣僚の顔ぶれを紹介する。
内務大臣 床次竹二郎
大蔵大臣 高橋是清
司法大臣 原敬のち大木遠吉
文部大臣 中橋徳五郎
農商務大臣 山本達雄
逓信大臣 野田卯太郎
鉄道大臣 元田肇
内閣書記官長 高橋光威
法制局長官 横田千之助
伊藤博文が明治33年8月25日、立憲政友会総裁となり、そのあとを西園寺公望が継ぎ、大正3年6月18日原敬が総裁の座についた。立憲政友会創設以来18年目でやっと政党政治が緒に就いた。ここで政党政治に深入りするつもりはないが、第二党の立憲憲政会の加藤高明の対応は参考になる。憲政会の幹部たちは「寺内内閣を支えたのが政友会だから寺内と原は同じ責任を持っている。ここで原首相を一気に弾劾しよう」とした。これをとどめたのは加藤高明憲政会総裁であった。「政党政治をうまく軌道に乗せさせるよう監視するのも反対党の大事な任務でしょう」といったという。えてして党利党略に走る昨今の政党とは政党党首の品格が違うようである。加藤高明に首相の座が回ってくるのは4代の内閣が変わった大正13年6月である。
平民宰相といわれた原敬は無欲な人であった。大正2年第一次山本権兵衛内閣での内務大臣であったとき多年の功績に対して授爵が内定したけれど固辞した。大正4年11月にも大正天皇即位大礼の恩典として授爵の話が出たがこれも辞退した。当時、勲記、授爵は天皇の命令で自分勝手に辞退することができない不文律があった。あくまで固辞すれば不忠のそしりを受ける。そこで原敬は山県や西園寺の元老を歴訪して「爵位を受けると、衆議院に議席を持つことができなくなる。自分は生涯衆議院で国家のために尽くしたいから」と説得し位階勲等だけを受けて、爵位は最後まで断った。遺書には次のようにあった。
@死後位階勲等などの陞叙、授爵等の有難き思し召しあるとも絶対のご辞退申し上ぐること
A葬儀は郷里盛岡で執行し儀仗兵を付せられる等のことはこれを辞し、香花の寄贈も辞すべし
B墓標には位階勲等を記さず単に「原敬」と銘記すること
C葬儀は母や兄の例によりそれ以上のことなすべからず
原敬首相は大正10年11月4日東京駅で省線大塚駅の転轍手中岡艮一(19)の凶刃に倒れた。時に66歳であった。
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