2009年(平成21年)6月1日号

No.433

銀座一丁目新聞

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追悼録(349)

小野富次さんを偲ぶ

 毎日新聞の友人畠中茂男さんから政治部出身の小野富次さんの追悼録「先見の明」をいただいた。畠中さんが世話人の一人になって今年の1月にまとめてもので「先を見通す能力の『先見の明』こそ優秀なジャーナリスト資格の一つだ。題名をこれにしたのも多くの寄稿者が指摘されていることに応えた」と後書きで書いている。小野富次さん以て瞑すべしである(平成19年2月15日死去、享年83歳)。
 読んでいるうちに小野富次さんとはいろいろな不思議な糸で結ばれているのがわかった。神戸支局振り出しの小野記者が政治部に来たのは昭和25年6月である。私は社会部で警視庁クラブにいた。この頃の政治部には学徒兵から復員してきたばかりの元陸、海軍の将校、下士官上がりの若者でうようよしていた。全舷で宴たけなわになると軍歌が始まる。それも次から次と歌われる。戦争に行っていない次の世代の連中から『辞めろ』の声が上がる。そんなとき元海軍少尉陸戦隊隊長、五味三勇さん(のち東京・編集局長)が目をつり上げて『何が悪い』と反論したという。小野記者は昭和20年1月、学徒出陣で千葉県松戸にあった陸軍工兵学校に第1期特別甲種幹部候補生として入校する。ここには私と一緒に大阪社会部のデスクをした檜垣常治君も大連2中の同級生、大友親君も入校している。社会部の全舷では陸士出身の私のほか学徒兵がいないわけではなかったが軍歌を歌った記憶がない。酒飲みグループと麻雀組に分かれて大いに楽しんだ。政治部と社会部の気質の違いかそれとも“めんこ”の数の違いであろうか。小野記者は昭和38年2月政治部デスクになる。私はその年の8月大阪社会部のデスクになる。昭和38年11月23日ケネディ大統領が暗殺された時、小野記者は当番デスクであった。箱根で開く日米経済会議に出る米国の閣僚を乗せた飛行機はすでにアメリカを飛び立っていた。小野デスクは真夜中であったが大平正芳外相に電話で知らせる機転を見せる。朝刊に日米経済会議の中止を記事にするのも忘れない。見事な処理の仕方であった。大阪にいた私は当時の編集局の緊張した雰囲気を知らない。昭和41年8月、政治部デスクを経て神戸支局長になる。ここで毎日新聞・神戸市主催の『神戸カーニバル』を企画、大成功を収める。開催までに市役所花時計前のフラワーロードを交通禁止にする規正を所轄署が『前例がない』という理由で許可しない等の難問があったが小野支局長のねばりで解決する。『神戸カーニバル』は中央会場で出場団体53団体、3千人、観衆40万人を数えた。そのあと5回続き、現在の『神戸まつり』に引き継がれた。この事業成功の秘訣が、毎日書道展が昭和58年読売新聞の横破りで危機に瀕した際にも見事に生きる。専務理事として平岡敏男理事長(当時毎日新聞社長)を助けて創設の原点に立ち返り、筋を通して不屈の信念で5年で再建を果たした。さらに全国規模の高校書道展「書の甲子園」の開催は難産であったが彼の熱意と優れた企画性の故に実現をみた。見事というほかない。小野富次さんを「先を読み切れる優れたプランナーだった」と激賞されるのは当然であろう。私はそれを支えたものは小野さんのあくなき読書にあると思う。夫人の充代さんが「近所の書店の方が小野さんのような方が3人おればこの店は成り立ちますといつも言っていました」とエピソードを紹介しているのを見てもわかる。私は今後輩たちに「死にもの狂いで本を読め」と勧めている。小野さんも同じ気持ちだと思う。
 

(柳 路夫)