2009年(平成21年)6月1日号

No.433

銀座一丁目新聞

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安全地帯(250)

信濃 太郎

第1次世界大戦と日本(大正精神史事件・戦争3)

  大正天皇は第一次世界大戦・青島の戦陣を偲ばれて御製を詠まれた。

 大正天皇の漢詩「観月」(大正3年)
 「晩天風起白雲流(夜に入りて風が起きて白雲流れ)
  名月方昇画閣頭(名月はまさに画閣のほとりに昇る)
  遥想軍営霜露冷(はるか軍営を思えば露霜は冷たく)
  労山湾上雁声秋(労山湾の上をゆく雁の声は秋)」

 大正3年8月23日、日本は第1次世界大戦に参加。ドイツに対して宣戦布告。大正天皇は宣戦詔書に署名をされる。

 「天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本国皇帝ハ忠実勇武ナル汝有衆ニ示ス
 朕茲ニ独逸国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ陸海軍ハ宜ク力ヲ極メテ戦闘ノ事ニ従フヘク朕カ百僚有司ハ宜ク職務ニ率循シテ軍国ノ目的ヲ達スルニ勗ムヘシ凡ソ国際条規ノ範囲ニ於テ一切ノ手段ヲ尽シ必ス遺算ナカラムコトヲ期セヨ
 朕ハ深ク現時欧洲戦乱ノ殃禍ヲ憂ヒ専ラ局外中立ヲ恪守シ以テ東洋ノ平和ヲ保持スルヲ念トセリ此ノ時ニ方リ独逸国ノ行動ハ遂ニ朕ノ同盟国タル大不列顛国ヲシテ戦端ヲ開クノ已ムナキニ至ラシメ其ノ租借地タル膠州湾ニ於テモ亦日夜戦備ヲ修メ其ノ艦艇荐ニ東亜ノ海洋ニ出没シテ帝国及与国ノ通商貿易為ニ威圧ヲ受ケ極東ノ平和ハ正ニ危殆ニ瀕セリ是ニ於テ朕ノ政府ト大不列顛国皇帝陛下ノ政府トハ相互隔意ナキ協議ヲ遂ケ両国政府ハ同盟協約ノ予期セル全般ノ利益ヲ防護スルカ為必要ナル措置ヲ執ルニ一致シタリ朕ハ此ノ目的ヲ達セムトスルニ当リ尚努メテ平和ノ手段ヲ悉サムコトヲ欲シ先ツ朕ノ政府ヲシテ誠意ヲ以テ独逸帝国政府ニ勧告スル所アラシメタリ然レトモ所定ノ期日ニ及フモ朕ノ政府ハ終ニ其ノ応諾ノ回牒ヲ得ルニ至ラス朕皇祚ヲ践テ未タ幾クナラス且今尚皇妣ノ喪ニ居レリ恒ニ平和ニ眷々タルヲ以テシテ而カモ竟ニ戦ヲ宣スルノ已ムヲ得サルニ至ル朕深ク之ヲ憾トス
 朕ハ汝有衆ノ忠実勇武ニ倚頼シ速ニ平和ヲ克復シ以テ帝国ノ光栄ヲ宣揚セムコトヲ期ス」

 首相は大隅重信、外相は加藤高明であった。加藤外相は終始、対独開戦論者で、「この機会に日本の東洋における立場を一段固く築きあげようとする外交的熱願があった」という。
 日独国交断絶の日、東京・永田町のドイツ大使館前は憲兵、警官が厳重に警戒をしたのは当然だが、掛けとりの集金人も詰めかけたというから面白い。当日の「時事」によれば「牛肉屋、ガス会社などがきて勘定を迫った。まるで破綻した銀行の取り付け騒ぎのようであった」と記す。
 友人の霜田昭冶君が日清戦争、日露戦争、日独戦争、大東亜戦争について戦宣詔書の中のお言葉の相違を研究、興味ある一文を発表している。
 対米宣戦布告文(昭和16年12月8日)は対清(明治27年8月1日)、対露(明治37年2月10日)、対独(大正3年8月23日)と著しい違いが三つあると指摘する。@は「皇帝」が「天皇」に称号が変更になっている。A戦争に携わる人たちへの激励の言葉があるが、その対象が「百僚有司」又は「陸海軍・百僚有司」から「陸海将兵・百僚有司・衆庶」と範囲を拡大している。B他の三つの布告文にある「国際法に悖らざる限り」とか「国際条規の範囲に於いて」など国際法に関わる文言がない。表現に若干の違いがあるが.一貫している思想は「東亞の安定」と「帝国の光栄の保全」であるという。対米宣戦布告に「国際法」の文言がなかったことについて「脱亞入欧」の目標を果たした自信と大東亜共栄圏と言う新しい世界秩序作りに次の目標を選択したことと決して無関係でなかろうと説明する。含蓄のある指摘である。
 東洋におけるドイツ軍の主根拠地は青島であった。兵力約5千、砲約130門、要塞を堅固にして我が軍を待ち構えた。艦艇は17隻、4万5千トンであった。
 日本軍は神尾光臣中将(草創期・歩・長野)率いる久留米の第18師団を主力に、野戦重砲兵第1連隊、攻城部隊、歩兵第29旅団など約5万、砲150門であった。これに華北駐屯のイギリス軍1個大隊他が参加した。青島攻撃準備に約1ヶ月を要した。この間ドイツ軍は膠州湾内の艦艇や海泊河左岸の諸砲台から昼夜砲撃を繰り返し、歩兵もしばしば逆襲を企てた。10月17日には軍艦「高千穂」が敵の水雷攻撃で撃沈された。生き残った水兵は12名だけであった。要塞総攻撃は10月31日から始まり14日で終結する。11月4日、射撃を開始した28サンチ榴弾砲の威力が効果的であった。死傷者は日本軍1250名、ドイツ軍約900名であった。

 大正天皇の御製
 「沈みにし艦はともあれうたかたと消えし武夫(もののふ)のをしくもあるかな」
 「国のためたふれし人の家人はいかにこの世をすごすなるらむ」

 大正4年「臨靖国神社祭有作」
  武士重義不辞危 (もののふは義を重んじ危険を顧みず)
  想汝従戎殞命時 (汝が軍に従い一命をおとした時を想い)
  靖国祠中厳祭祀 (靖国神社におごそかに祭り祀る)
  忠魂万古護皇基 (忠魂よとこしえに皇基を護れ)