2009年(平成21年)5月20日号

No.432

銀座一丁目新聞

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安全地帯(249)

信濃 太郎

おかみさんたちによる米騒動おきる(大正精神史事件2)

 大正7年、富山県で起きたおかみさんたちによる「米騒動」にふれる。これがきっかけで「米騒動」は全国に広がり、1道3府32県に及んだ。報知新聞百二十年史「世紀を超えて」によると、報知新聞社は大正7年の元日、すでに東京・月島で「報知雑煮会」を催して被災者を慰問、2月には東京市内を巡回して白米の安売り、8月の米騒動の時にも白米の巡回廉売を行った」とある。この年、世界大戦による好況の半面、物価の高騰や暴風雨、冷害などが重なり、各地の庶民は困窮した。このため新聞社が率先して慈善事業をしている。企業としての社会的責任を果たしているのはすごい。
 米騒動発祥の地、魚津町(現魚津市)大町海岸公園の一角には記念碑が立てられ、その歴史を伝える。それは自然の成り行きであった。というのはこのあたりの人々は共同井戸を使っていた。ここで炊事仕事をしており、おかみさんたちが寄り集まって話し合っていた。出るのは高くなるお米の話ばかりであった。コメの値段が上がるのは死活の問題であった。日本の歴史上、女性たちによる暴動はない。地域的な連絡もなく、組織も指導者もなく特異なものであった。新聞報道によってさらに全国に拡大した。
 海に出る亭主のためおかみさんたちは8合から1升の弁当を持たせた。コメは毎日1升ずつ買う。とりわけ7月、8月の夏場は魚の種類が少ないうえに数が取れない。その収穫を漁業会に売って銭に代えて米を買う。当時の漁師は明日の米まで持っている者はほとんどいなかった。だからコメの値段が上がるのは身を切られるよう辛かった(聞き書き「富山の食事」農山漁村文化協会)。女性たちが生きるために当然の如く立ち上がった。前掲の「富山の食事」によると、米騒動を調べている地元の高校の先生の話では騒動発祥の地がどこで、いつ起きたかがはっきりしないという。6月下旬に水橋町で騒動があったらしい。記録の上では7月23日の魚津の騒動がはっきりしている。大町には魚津銀行、十二銀行、高岡銀行などの倉庫があって米俵が山積みしてある。地主や米商人が付近の米を集めては倉庫に預けたのである。富山県下新川郡魚津町に北海道へ米を輸送するため「伊吹丸」が寄港。伊吹丸に積み荷を行っていた大町海岸の十二銀行の倉庫前に魚津町の主婦等十数人が集まり、米の船積みを中止し、漁民達へ販売するように嘆願した。この時は警官によって解散され、船積みも中止され無事に済んだ。小規模ながら騒動は続く。7月27,8日東岩瀬、8月2日泊、3日西水橋、4日生地町に波及する。それが5日には滑川町で約300人の町民が騒ぎ、6日に1000人以上の町民が参加して騒乱となった。富山県は米所であるのにせっかく作った米を高く買わされる。高くなるのは県外に米を積み出すと考えたからである。役場や米問屋に掛け合ったがラチが開かなかった。
 8月5日の大阪毎日新聞の記事を引用する。
 「富山県中新川郡西水橋町は全町漁業を以て生計を営みおり、男子の大部分は北海道樺太方面へ出稼ぎしてその労銀を家族に仕送りおれり。然るに樺太方面は本年非常に不漁に手仕送金全く途絶せしのみならず、却って帰りの路銀の送附を迫りくる有様なるにより、家族は昨今の米価騰貴にて糊口さへしのぎ難期折から、困難甚だしくいまや餓死するほかなき悲惨の状態にあり。されば、このほど来出稼ぎ漁夫の家族は寄りより密議を凝らし不穏の模様ありしが俄然3日午後7時ごろより、各戸の女房は続々海岸に集まり、その数百七、八十名に上り、六、七十名宛3隊に分かれ、有力者を歴訪してコメの供給を迫り、村落の米の所有者を襲ひて、米を他町に売るべからず町民に安く売るべし、もし聞かざるば家尾を焼き払い、一家を殺すと脅迫し石金町長の私宅をはじめ有力者の宅を訪ひて、これまたコメの輸出禁止及び救助を哀願して事態不穏を極めたり」(高岡来電)。当時の漁民たちの苦しい生活の様子がよく出ている。
 当時の米の小売り値段(1升)は次の通りである。
 

(九州・門司の米価)

 大正5年 6月    16銭5厘
 大正6年10月    28銭
 大正6年11月    29銭5厘
 大正7年 1月    29銭
 同年    5月    32銭
 同年    6月    33銭5厘
 同年    7月    34銭
        8月 1日    36銭8厘
        8月 4日    37銭5厘
        8月 9日    42銭
        8月14日    55銭

 なお神戸米会所の相場(1升)をみる。
 

 大正7年 7月2日    34銭3厘
        8月1日    40銭5厘
        8月9日    60銭8厘

    
 何故米が騰がったのかと言えば、第一次大戦の影響による好景気で都市部の人口増加、農村の食生活の変化で米食が増加したことのほか米の輸入が減少した。大正3年約200万石あったものが大正5年には45万石、大正6年には31万石に減っている。直接の原因はシベリア出兵であった。軍が大量の米を買い付けるだろうという思惑もあった。寺内正毅内閣(大正5年10月から大正7年9月)は外米を輸入して米価の調整を図るとともに暴利と締まり法を制定して、米穀の買い占めや暴利をむさぼるものに制裁を加えるなどの方策を取った。だが商人たちの米の買い占め,金持ちの買い占め、さらには米穀の不作もあって米の高騰を抑えることは出来なかった。米騒動の参加者は全国で70万人を数え、2652人が懲役、1620人が罰金の刑に処せられた。
 前掲の「富山の食事」には大正3年魚津の漁師のもとへ19歳の時に嫁にきて、米騒動にも参加した川岸きよさん(当時95歳)の話が載っている。ノンフィクションライター玉川信明さんが取材のおわりぎわに川岸さんはこういったという。
 「その当時、もと魚津市長の高野はんが一番米買い込んだが出すれど、今この高野はんはないようになっとります。魚津に大商いが4軒あったが今はどこものうなった。昔の金持ちが一軒もないので、悪の栄えたためしはないとつくづく思うとりますちゃ」
 古今東西「悪が栄えたためしなし」は永遠の真理である。