2009年(平成21年)1月20日号

No.420

銀座一丁目新聞

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安全地帯(238)

信濃 太郎

乃木希助・静子夫妻の殉死とその影響―(「大正精神史」)

 大正元年を迎えた世間の耳目をそばだてたのは9月13日の学習院院長乃木希典大将と夫人静子さんの殉死であった。この日は明治天皇御大喪の日。午後8時霊柩御発引の号砲がなると乃木夫妻は赤坂新坂町の自宅二階の間で皇居を拝して自刃した。乃木大将は明治天皇の御不例が7月20日発表されてから7月29日ご逝去される日まで朝・昼・晩三回参内して御容体を伺い寝食を忘れて御回復を心から祈念された。この間好物の煙草と酒も断った。明治天皇を思う気持ちは人々の想像をはるかに超えた。明治10年西南の役では軍旗を奪われ、明治37、8年の日露戦争では旅順攻略戦で多くの犠牲者を出す。そのつど死に場所を求めたが得られなかった。それにもかかわらず明治天皇の皇恩をかたじけなくしている。10通に及ぶ遺書があった。その遺書には「自分此度御跡を追ひ奉り自殺候段恐れ入り候儀其罪は不軽存候」とはっきりと殉死を明記する。
 その殉死の状況は安楽兼道警視総監(19代・鹿児島県出身・御大喪の際、御葬列の先駆を警視庁警部20名とともに務める)から大山巌元帥に報告された。その原文を紹介する。

 「13日午後9時乃木邸内に来たり居りし群馬県警部補より赤坂警察署警部補へ電話にて事
 件出来たるにより直ちに派遣されたしとあり、依って岩田警察医員、園江検視医員野沢疫
 委員は急遽乃木邸に赴きたるに2階8畳間の間(2間続き処)に大将は正装の上着を脱し
 た儘夫人と相対して俯臥し軍刀を以て喉頭部をは甲状軟骨と環状軟骨との間を殆ど気道並
 びに頸動脈を全裁し剣尖は深く左頸部に向かって刺入れり之即ち致命傷なり、また腹部胸
 部上三指横経(意味明らかならず)に処にあって十仙断切せり、其深さ骨に達す。令夫人
 は仰座両手を胸に当て膝を出し白鞘の短刀を深く左胸部第五肋間胸骨外線に刺入れ其尖端
 は心臓部に達す。之致命傷なり。遺言状は12日に認めたるものにして其文意は単に先帝
 の御供申上るとの意味なり、また別に夫人へも遺言状を書かれある点を察するに初めは単
 身切腹せんとせしものなりなりしが今朝(13日)に至り御夫婦か殊に御氣嫌よかりし処
 より察すれば御夫婦談会ひの上決心せられたるものの如く尚遺産分配より細事に至るまで
 もれなく遺書されたる趣且辞世の歌も添えられたり、之れを以て豪も精神に異常を呈せる
 ものにあらずと認めらるべし」(警視庁史大正編)

 二人の死については希典が腹十文字にかき切り、それを見届けて静子が自ら胸に懐刀を刺して夫の後を追ったとする説もあるが、渡辺淳一はその著「静寂の声―乃木希典夫妻の生涯」(角川書店)で「まず希典が静子を先に刺し息絶えたのを見届けてから姿をなおしてやり、しかる後に希典自ら喉をついて死についたと考えるのが妥当である」と述べている。
 報告書が「意味明らかならず」とした点について「刃先が第三頸椎横突起まではねあげており・・・」と渡辺さんは説明する。軍刀は備前兼光、短刀は月山貞一作であった。辞世の歌は「うつし世を神さりましし大君のみあとしたひて我は行くなり」(希典)「出てましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふそかなしき」(静子)

 乃木大将の殉死に賛否両論が起きた。三宅雪嶺は「身を以て君国に報ずるというのが大将の素願である。(中略)今回の事件は宮中にあって内帑を盗んで栄華を極る輩や聖恩になれて身の栄達を講ずるに急なる元老大官に大いに響く」との談話を残す(朝日新聞大正元年9月15日)
 大阪毎日新聞はその社説で「人格の力」と題して次のように論じた。「才略一世を蓋ふものは古来其人乏しからず、功業青史を照らすもの、東西其数多し。然れども、深く人心に影響して感化を与え、万古にわたりて人道を維持し、国体を擁護し、人類社会に対して、献身犠牲の精神と、その精神を実行する動作との一致せる人格者は希なり。絶倫なる人格者を擧ぐるに今更仏陀を説かず、基督を語らず、孔子を引かず、ソクラテスをかりきたらざるべしと雖も、人格の力を論ぜんとすれば、到底これら偉人を回想せざるを得ず。華盛頓、文天祥、楠公、山鹿素行、その他幾多の仁人,君子、忠臣、義士を連想すること禁じ得ざるなり。これらの人々は、国に乱臣賊子の跡を掃ひ、世に軽佻浮薄の悪賊を絶ち、人道を維持して以て世界の平和を永遠にし、人情風俗を厚くし、世界、国家、釈迦の安寧、隆昌、幸福を招致するは宕人の範とする所なり。これらの人々の人格の力如何に偉大なるか、優秀な人格の如何に必要なるかは推して知るべきなり」現今の為政者を論難して、これらの為政者に比べて乃木大将こそは“人格の人”と激賞して「学ぶべからざる乃木大将の自尽をも自己に対する教訓として善意に解釈し、以て己が人格修養の資とするを可とす。殉死の可否のごときは今更之を論ずる要なきなり」と結んだ(大正元年9月17日)。
 ところが同紙の翌日の紙面で京都大学教授谷本富の社説とは正反対の「将軍の死は、古き時代の遺物であり、奇矯の感なきを得ず」との寄稿を載せた。9月20日毎日新聞社員会議では谷本教授の論文掲載について非難の発言が出た。社長本山彦一は「谷本博士への攻撃ははなはだしくなったが言論と思想は自由でなければならない」と諭したという。大毎の社説がきっかけで海外新聞も含めて1ヶ月にわたって論戦が展開されたとして大正デモクラシーの夜明けを告げるにふさわしい大毎の問題提起であったと「毎日新聞百年史」はつづる。
 乃木大将の殉死を非としたのは寺本教授だけではない。「信濃毎日新聞」の主筆桐生悠々は社説で「陋習打破論―乃木将軍の殉死―」を掲載し殉死の無責任を論じた。殉死は封建の遺物であり、明治天皇への忠誠心から殉死することは後継者である現天皇に対して不忠不誠とはならないか。もし殉死を善事とし、したがってこれを奨励し、したがってこれを実現せしむれば君主の崩御とともに国家の功臣はことごとく死んでしまわねばならない…実に不得策極まる愚擧であると説いた。この社説は大毎の寺本教授と同じく轟々たる非難を巻き起こした。社の営業方針上、社長の謝罪文掲載で事をおさめた。大毎は外部の寄稿、信毎は主筆の原稿の違いがあっても読者の非難に対する処置方の違いが出たのは興味深い。
 大正天皇は大正2年に乃木大将を追想、賛美された詩をつくられた(田所泉著「大正天皇の文学」・風涛社)。

 満腹誠忠世所知(満身の誠忠は世の知るところ)
 武勲赫々遠征時(武勲は赫々たり遠征のとき)
 夫妻一旦殉明主(夫妻はその日明主に殉じ)
 四海流伝絶命詞(人みなその辞世の歌を伝え広める)

 それから32年後、陸軍予科士官学校59期生は昭和18年9月13日の乃木祭の日を朴して同期生会発会式を開いた。この朝3000人の同期生は午前2時30分に起床、浴場で水を浴び斎戒沐浴して発会式に臨んだ。「死生相結ぶ心友なり 骨肉の情誼を致し 苦楽をともにし 切磋琢磨、誓って 皇軍団結の楔子たらん」と誓いあった。同期生の一人は日記に武人の典型乃木大将の絶唱を思い出すとして辞世の句を書きしるした。