1998年(平成10年)9月1日(旬刊)

No.50

銀座一丁目新聞

 

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ヒマラヤの虹(20)

峰森友人 作

 尾根道に戻ると、再び谷の向こうから子供たちが声をかけてきた。慶太が手を上げると、子供たちもそれを真似て手を上げる。カメラを取り出して向けると、遠目にもそれと分かったのか、子供たちはいっそう歓声を上げた。慶太が上り始めると、それに合わせて子供たちも谷を挟んだ斜面を上っていった。やがて尾根道と同じぐらいの広さの道が左の斜面に分かれて延び、その先の平坦な高台に人の動きが見えた。平屋の細長い建物の前の広場で男たちが何か作業をしている。そのそばの積み石の上でウダヤが座って男たちと話していた。なるほど高台からは村を一望出来る。左右の尾根から下に広がる斜面に、農家が点在している。その周囲のなだらかな斜面はことごとく段段畑に開墾され、そそり立つ斜面だけが林になっていた。

 慶太は一度高台への道に入りかけたが、分岐点で立ち止まってしばらく村を眺めていた。村の写真を撮ると、また尾根道を上り始めた。しばらく行くと、村とは反対側の右手の谷の木の間を通して、ラムジュン・ヒマールがちらっと見えた。慶太はその写真を撮るために、林の中に分け入った。少し進むと、目の前に急峻な谷が落ち、その奥の山のさらに奥に、ラムジュン・ヒマールが大きな姿を現した。朝車を降りた河原からは丸く見えた山肌に幾筋もの鋭い稜線が走り、それはさながら未完成の巨大な氷の彫刻を見るようであった。慶太は倒れた古木に腰を下ろし、目は周囲を眺め渡しながら、先程の緊迫した出会いを振り返った。

 自分は一体何をしにモージャまでやってきたのだろう?何かとんでもない愚かなことをしているような空しさに襲われた。その空しさは自分の行為を嘲笑うことから来ているようだった。美穂子は、百合が目の前にいるにもかかわらず、慶太からの電話を百合には知らせず、その後も一言も慶太のことを百合に話していないことは昨夜の美穂子の話しのとおりだった。わざわざニューヨークからやって来た慶太の行動に美穂子も内心ではあきれていたのかも知れない。自分一人だけが勝手に、しかも大真面目に百合の転身に心をいためていたのではなかったのか。いわばあの思い込みの激しいラマンチャの男のように。

 何気なく眺めていた数十メートル右下の斜面で突然人影が動いた。それは中央の大きな谷に流れ込むいくつかある小さな沢の一つのそばだった。人の体の何倍もあるような大きな岩が一つ半ば沢の上にかぶさるように転がっている。沢の上の方は慶太がいる場所と同じく薮と林である。人影は慶太の位置から見て岩の前だった。岩の下の谷からは岩の陰でその姿はまったく見えない。上からも薮や林が遮っている。林の中に潜む者を除けば、そこは完全な死角になっている。

 その人影はどうやら今岩の下の方から登ってきたばかりのようである。薄いベージュの衣をまとった女である。同色のスカーフを頭からかぶっている。沢のせせらぎの水以外何もない狭い岩陰で女は何をしようとしているのだろう?慶太はその様子を凝視した。

 すると女はゆっくりとスカーフを取ると、続いてまとっていた衣の上半分を肩、腕、胸の順に脱いでいった。慶太は思わず自分の上半身をねじってブッシュの陰に隠した。あまりにも意外なものを目にしたために、咄嗟に出た行動である。見てはいけないものを盗み見する罪悪感が手伝って、慶太は息を殺した。

 女は少し大きな声を出せば十分聞こえる距離で、いま上半身をあらわにしたのである。林の中に視線があることなどまったく意識していないのは明らかである。慶太は木の葉一枚の音もたてないように、そっと顔を上げた。女はタオルのようなものをせせらぎに浸し、しゃがんだままそれで自分の体を拭き始めた。肌を突き刺す冷たさのはずのヒマラヤのせせらぎの水。女はそれを繰り返す。慶太は枝の隙間からその光景を見ている自分が苦しくなり、思わず膝に置いていたカメラを取り上げてのぞき込んだ。ラムジュン・ヒマールの彫刻のような稜線を取るために二百ミリいっぱいに引っ張った望遠レンズはそのままである。それはレンズの威力を生かすというより、カメラの陰に隠れる行為だった。

 レンズで切り取られた小枠の中に、今度はくっきりと黒い岩をバックにした女の白い姿が浮かび上がった。ゆっくりと丁寧にタオルが肌をなでていく。胸の中央でひときわ高く白いものが盛り上がっている。続いて背中にタオルを回して、両腕で交互に擦る。その動きの度に盛り上がった胸の白い部分が大きく揺れた。背中がすむと、女はせせらぎの上に覆い被さり、タオルの水を背中にかけ、さらに胸を拭った。続いて、女はせせらぎに覆い被さったまま、頭を洗った。黒い髪が長く顔の前に垂れ下がる。女は少し首を傾けて、その髪を右肩から胸の方へ落とすと、それを何かですくように上から下へ何度も手を動かした。

 それがすむと、女は慶太から見て後ろ向きに立ち上がった。腰を深く曲げ、垂れ下がった髪をタオルで揺すりながら拭いている。その度に脇の下で揺れる胸のふくらみが見え隠れした。慶太はこの時、ふっと美穂子が言った脇の下の傷のことを思い出した。しかしそれを確認するほどの力は、二百ミリにはなかった。女はさらに衣の裾を開いて、足首から上へとタオルを使った。

 続いて女は背筋を伸ばしたかと思うと、突然身につけていたものをすべて取り去った。そして足元にあった別な衣を着けた。一瞬の動きだった。新しい衣は緑色のサリーである。女は足元の衣をかき集めると、岩の下をくぐり抜け、その向こうに消えた。

 慶太はシャッターに指を置いたまま、ついに一度も押さなかった。いや元々シャッターを切る意思はまったくなかった。カメラは最初から慶太の罪の意識の隠れ蓑だった。

 かなりの時間がたって慶太は茂みから出て尾根道を下り始めたものの、頭の中は先程見たばかりの光景がそのまま残っていた。高台への分岐点まで来て、ウダヤに「サー!」と呼びかけられた時、初めて我に返った。

 「サー、ヘルスポストの建物にはチェリーの客たちがいつも使っている部屋がある。そこで泊まっていいって。毛布もある」

 ウダヤが村人たちの話しを伝えた。

 「私はヘルスポストにいます。用があれば呼んで下さい」

 ウダヤはこう言って、高台の方へ戻っていった。その高台の下の谷を挟んだ反対側の高い山並みの陰に太陽が今入り込もうとしている。空は明るいが、モージャ村はこれから一気に夕暮れに沈んでいく気配である。時計は午後四時半過ぎである。慶太が百合を後にしてから、一時間十五分たっている。慶太はゆっくりと尾根を下って百合のいる家へ戻って行った。

 

 緑のサリーに居住まいを正した百合は、庇の下に置いた床几に腰掛けて待っていた。慶太が近付くと、百合は静かに立ち上がって、手を前で重ね、まるで和服を着ているような身のこなしで頭を下げた。

「先ほどは大変失礼いたしました。あまりにもびっくりして、どうしていいか分かりませんでした」

 百合は、まだぎこちないが、それでもかすかな笑みを忍ばせて言った。春よりもずっと長くなった髪はきれいに梳かれ、緑のサリーの肩に落ちている。うっすらと化粧をしているのか、唇は光っている。だが足元に目をやった慶太は思わず、口元をほころばせた。その足は慶太の見覚えのある黒のリーボックのウオーキングシューズだった。しなやかなサリーとウオーキングシューズ。

 「サリーがとっても似合って素敵だけど、靴はずいぶんいたみましたね」

 「あ、これは・・・」

 百合は慌ててサリーのすそを引っ張って、その中に靴を隠そうとした。しかし前かがみになった時靴は隠れたが、背筋を伸ばすとまた靴の先がサリーの下から現れた。その部分は擦り切れて、黒というより灰色だった。

 「いや、そのままで。靴を見ると、ずいぶん歩かれたのが分かります」

 百合はまた裾を引っ張りながら、床几の方へ慶太を招いた。

 床几に座ると、慶太はいつかもこうして百合と並んで座って、いろいろ話しをしたことを思い出した。

 「ガンドルングを覚えてますか」

 慶太が聞いた。

 「ハイ、よく覚えております。私は折りに触れて、あのトレッキングのさまざまな場面を思い出して、自分を慰めたり、励ましたり・・・。あれは自分では想像も出来なかった大胆な決心をするきっかけとなりました」

 百合は改まった調子の丁寧な言葉を続けた。慶太もまだ十分に硬さが取れず、初めて会った時と同じように、言葉遣いに神経を使っていた。

 「いや、それで僕はあなたに責任を感じているんです。何か大きな間違いをするきっかけを与えてしまったように思えて・・・。一緒に行きたいと言い出した時、もし僕が断っていれば、あなたはやはり東京に帰って、JTSを辞めることにはならなかったと・・・」

 「どうぞ責任などとおっしゃらないで下さい。私はちゃんとした大人です。決して佐竹さんにたぶらかされたからではありません。でも佐竹さんにお会いしたのが大きなきっかけとなったのは、間違いありませんね。さもなければ、ポカラに来ていなかったし、トレッキングにも行っていなかったんですもの。それに美穂子さんに再会することもなかったし、山を歩く生活に自信を持って挑戦することも出来なかった・・・」

 慶太はうなずいた。

 「佐竹さんと美穂子さんにこのネパールで会ったことが私を決心させました。でもその決心は私が自分でしたことなんですよ。私はその勇気をいつか佐竹さんに誉めていただきたいと思っていたんです」

 百合はこう言うと、慶太の顔を正視した。慶太も百合の顔を見た。以前はなかったしわが何本か目尻に走っている。きめの細かな肌であったはずのうなじや顎のあたりが心なしか荒れている。

 「でもあなたが突然JTSを辞めて、その行方すら分からないということをあなたの手紙の前に山田里子さんから聞いた時は本当にびっくりしました」

 「まあ、山田さんとお知り合い?」

 「山田さんは本当にあなたのことを心配していました。でもあなたから手紙をもらった時も驚いた。それまであなたのことを何も知ならかったから。あなたの事情が分かると、もう他人事ではなくなった・・・」

 慶太は言いよどんだ。百合は、小さな声で、

 「まあ」

 と言うと、少し顔を赤らめて膝の上に揃えて置いた手に目を落とした。

 「でも、本当にこんな所まで来ていただいて。美穂子さんにお会いになったのは・・・」

 「ハイ、昨日谷沢さんと会いました。それであなたがネパールで活動することになったいきさつを聞きました。しかし詳しいことはあなたから直接聞けって。彼女は、あなたが僕に会うかどうかはあなたが決めることで、そのための手助けはしないと言って」

 「まあ、そんな冷たいことを?」

 「それで僕がネパールに来ていることをあなたに言わなかったそうです。実はあなたがカトマンズの谷沢さんのオフィスにいる時に、僕が電話しました。谷沢さんはあなたに席をはずすように言ったとか」

 「まあ、あの電話がそうだったんですか。そうと分かっていれば、こんな所まで来ていただかなくてすんだのに」

 「いいえ、それでよかったんです。谷沢さんはその時、昨日フィッシュテール・ロッジで会う約束をしてくれました。彼女は僕を見て、この男は会わすべきではないと思ったら、きっといろんな形で妨害されたと思います。しかしそういうことはされずに、あなたが決めることだと。でも行き先までは教えないと言った。だから先程、今は会えないと言われた時、ハッと思った。やっぱり、自分は何か勘違いしていた、と」

 「いいえ、そんな。先程も申し上げたように、あまりにも突然のことで、すっかり動転してしまったんですもの。でも私は嬉しくて、涙が込み上げてきて、何もしゃべれなくなって・・・。だって自分で身を隠したのに、こんな所まで来てくれる人がいるなんて」

 百合の目はたちまち涙で潤んだ。その涙が一粒、二粒と頬を伝い始めた。慶太は自然に手を伸ばし、その涙を人差し指で掬い上げた。百合はされるままにじっとしていたが、目を閉じるとまた大きな涙が、二つ、三つ百合の頬を転がり落ちて、唇の端を濡らした。慶太はそっと濡れた唇にも指をあてた。山の端がかすかに光っている。巣に帰りを急ぐ小鳥たちが先程からあわただしく飛びかっている。夕日を遮られた谷間はいつのまにか深い藍色に染められていた。

 「でも谷沢さんが教えたのでなければ、どうして私がここにいることが・・・」

 百合の声はまだ少し震えていた。

 慶太は、百合のボンベイからの手紙からインドかネパールあたりにいるとにらんだこと、マデュカールが十一月に百合に出会ったことを順番に話した。

 「そうなんです。突然マデュカールに会ったときは、びっくりしました。だから大事な取材をしているので、誰にも話さないようにってお願いしたのに。すぐ連絡したんですか、マデュカールは。だめな人ですね、佐竹さんのお友達は」

 「いや、マデュカールのおかげでこうして会うことが出来た。のんびりとお人好しのように見えて、何もかも分かっているんだ」

 「何もかもって?」

 慶太は慌てた。自分は一体何を言おうとしたのか。

 「いや、それでマデュカールの情報もそうだけど、四月よりももっと天気のいい十二月のヒマラヤも見たかったし」

 「それにしても、こんな村の、この家まで迷わず来れるなんて、信じられませんわ」

「もちろん、マデュカールがいいガイドを世話してくれたこともある。でも順番に糸を手繰っていくと、あなたのところに着いちゃった。そういう意味では不思議ですね」

 慶太はポカラに着いてから後の、ネパール赤十字ポカラ支所やドルフェルディ、ゴルカ、チョルカテなどを訪ねていった行動を説明した。

 「まあ、これでは世界中隠れるところがないみたい。でもトリジャがしゃべったなんて、これも信じられないわ。トリジャがねー」

 百合は不思議そうに、トリジャの名前を繰り返した。

 「いいえ、実はトリジャからあなたがドクター・ヤマムラと呼ばれていると聞いた時は、これはやっぱり人違いだと思いました」

 「赤十字の関係者はどうしても医者とか学者とかが多いので、ドクターと別に確認していなくても、親しくなるまでは安全だからついそういう敬称で呼ぶんですね。私もドルフェルディに行った時は、いちいち説明して否定するのも面倒だから、呼ばれるままにしていたんです」

 「ヤマムラもなかなか気が付きませんでした。それで、もうその日のうちにゴルカに帰ろうと思った。そうすると、トリジャのお父さんが泊まっていけと強く勧めてくれる。それでその晩トリジャと再び話したのが突破口となったんです」

 「でも、桜ちゃんには会われなかった・・・?」

 「そう、今村の人をワークショップに連れてきていて、夕方までジャイカの事務所には帰らない。そしてモージャに帰るのは明日だって聞きました」

 「そうなんです。小川桜。とってもいい名前でしょう。陽気で、たくましくって、実に楽しい子なの。海外青年協力隊員。村の人たちと相談して、二年がかりで村興しに役立つ新しい事業を決める仕事ですって。いつも真っ赤なジャージーのトレーナー上下にスニーカーを履いて、このあたりの村を走り回っているの。道が狭いでしょう。だのに真っ赤なジャージー。すると水牛とすれ違う時、やっぱり水牛も牛ね、桜ちゃんの赤を見て、突然興奮して、突進してきたんですって。さすがの桜ちゃんも必死に尾根道を走って逃げる、牛が突っ走ってくる。逃げる、追う。もう走れない、水牛に殺されるって思ったら、チョータラがあった。そこへポンと飛び乗った。そしたら水牛はそのまま尾根道を走り続けたんですって。あの水牛の体では、細い山道で走りながらの回れ右はとても出来ませんものね。それで桜ちゃんの乙女の体は無事だったんですって」

 百合は楽しそうに話した。だんだん心が開かれて、トレッキングを共にした時の百合が戻りつつあった。

 「実は、桜ちゃんと会ったのは、九月末にこのヒルと呼ばれている中部山岳地帯へ移ってきてまもなくだったの。トリジャとヘルスポストのある高台のもう一つ向こうの山からモージャ近くまで来たときなんです。日も暮れてきたので、どこか泊まる所を探さねばとトリジャと話しているとき、ばったり桜ちゃんに出会った。その時も赤いトレーナーの上下。『あなたはJTSのキャスターでしょう』って。『女性の社会進出の問題でアメリカの元下院議員とインタビューしているのを、ジャイカの研修中に東京の寮で見た。あなたはその人だ』って。それで私は観念したんです。この時もちゃんと上下、クルタとクロワールを着て、スカーフもつけていたんですよ。それでも見抜かれちゃった。辞めてまだ間がないし、事情もあるのであまり人には知られたくないって言うと、彼女は『分かった、心配いらない』って。そのあたりは桜ちゃんもアメリカで育ったせいか、とってもあっさりしてもの分かりがいいの。それで今日の泊まりはどうするかって聞くので、これから村の人に聞こうと思っているって言うと、ぜひ自分の家に来て欲しい、お母さんもいい人だからって。お母さんって言うのは家主のおばさんのこと。それがきっかけで、私はここを秘密のアジトにすることになったの。一つの地区の調査が終わるとここに来て、記録の整理をしたり、報告の下書きをしたり、桜ちゃんとお互いに息抜きの日本語のおしゃべりをしたり。とっても助かってる。もちろん桜ちゃんは本当に信頼出来て、私のことを他の人たちには一切言わない。村の人もジャイカの関係者ぐらいにしか思っていないんです」

 百合はすっかり落ち着いて、桜との出会いを話していたが、

 「あら、もうこんなに暗くなっちゃった。そろそろ夕飯の支度をしなくては・・・」

 こう言って慶太を見た。慶太は、

 「谷沢さんから、少し野菜を持っていくといいと言われたので、あのバックパックに持ってきました」

 と言って、庇の下のバックパックに向かった。百合の前に、古い紙箱に入れた野菜を次々出していると、大きなニンニクの固まりが転がり落ちた。

 「あら、これで野菜のたっぷり入ったガーリックスープができますわ。マチャプチャレを見ながら毎日食べたガーリックスープ、まだお好きですか?」

 もちろんとばかりに慶太がうなずくと、百合は目を細めて、支度にかかった。

 

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