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小さな個人美術館の旅(46) 神田日勝記念館 星 瑠璃子(エッセイスト) 東京、練馬は神田日勝の生まれたところだ。八歳までここに住んだ。偶然のことだが、私の家もそこからそう遠くないところにあった。 終戦の年の4月13日、一晩で十万人が死んだ下町大空襲につぐものすごい空爆が池袋周辺を襲い、空が真っ赤に染まり火の粉が舞ったのを私は遠い夢のように覚えている。8月、戦災者集団帰農計画に基づく拓北農兵隊に加わって日勝の一家は北海道へ渡った。父母、二人の姉、兄、妹の七人が東京を発ったのが8月8日。ソ連が参戦して先発した船が津軽海峡で撃沈されてしまったため、鹿追に着いたのは一週間後の14日。翌日、戦争が終わった。 入植地は河東郡鹿追村字クテクウシ区画外354番地(現鹿追町笹川10区)、柏林に笹の茂る原野5ヘクタールと年譜にはある。東京出発があと何日か遅れていたら恐らく北海道に来ることはなかっただろう開拓農家の苦闘の歴史は、まさに終戦の翌日から始まったのであった。 「拝み小屋」と呼ばれる半地下の家に住み(それも失火でやがて焼けてしまった)、幼い頃から日勝は父母を助けて働いたのだったろう。後に現金収入を得るため父が鹿追郵便局に勤めて郵便配達夫となり、兄が東京芸大進学のため家を離れた後は、ひとり柏の根を堀り起こして荒地を耕した。そして開拓農民の殆どが離農し東京へ帰ってゆくなかで高校進学をも断念してそのまま農業に携わり、三十二歳というあまりに短い生涯を終えたのである。 「結局、どういう作品が生まれるかは、どういう生き方をするかにかかっている。どう生きるかと、どう描くかの終わりのない思考のいたちごっこが私の生活の骨組みなのだ」とは、死の一ヵ月前の彼自身の言葉だ。死因は腎盂炎による肺血症だったが、病名不明のまま入院し二週間後に急逝した。生涯に描いた作品を集めて神田日勝美術館が開館したのは没後二十三年経った1993年である。 「次はシカオイマチ、シカオイマチ」 窓外の風景をうっとり眺めていると突然アナウンスの声が聞こえ、慌ててバスを下りかけたが、あたりは見渡すかぎりただ一面の十勝の穀倉地帯である。 「いったいどこに美術館が?」 とステップに足を乗せたままたずねると、 「日勝記念館ならまだずっと先ですよ」と運転手が言う。シカオイマチと聞こえたのはシカオイバシの間違いだった。あんなところでバスを下りてしまっていたらどうなっていただろう。 前日は木田金次郎の美術館を訪ね(北海道を代表する二人の画家のうち一人が漁師で画家だった木田、もうひとりが神田日勝だ)、積丹半島の付根の岩内町から岩内山を少し登ったところにある宿を出たのは朝の六時過ぎだった。直行バスに飛び乗って札幌まで二時間半。札幌、帯広間は特急列車で三時間。帯広からまたバスを乗りついで一時間。鹿追町に着いたのは三時過ぎである。乗り継ぎの時間待ちを入れればじつに八時間以上かかって私はここに辿りついたのだった。 それにしても北海道のなんという広さだろう。これでやっとあの菱形の真ん中辺りなのだ。トウモロコシ(ピーターコーンというのだそうだ)の緑と、真っ白な花を咲かせたジャガイモ畑、それに金色に実った秋蒔きの小麦が美しい帯になってどこまでも続き、あるいは牛が草をはむ牧草地の中を青い空を映して野川がゆったりと流れていた。一見平坦に見える草原はゆるやかに傾斜しあい、ところどころにポプラや白樺の防風林が涼しげに立っている、そんな風景のなかを運ばれてきたのだ。 記念館は広大な広がりのなかにさらに広々と芝生の前庭をとり、十勝の山なみをモチーフにしたユニークな屋根が夏の日を受けてキラキラと輝く晴れやかな建物だ。わーいと思わず叫びだしたいような気分は、けれども一歩中に入ると一変した。
それはなんという苦渋に満ちた作品世界だったろう。開館五周年を記念した特別展「室内風景への軌跡」だからというだけでなく、この美しい風光には一切背を向けて、ただひたすらに身の回りの貧しい現実や己れの内面を見つめたような重い作品ばかりである。殆どがつなぎ合わせた板に描いているのは、絵具ばかりかキャンバスを買う金にもこと欠いたのだろうか。あるいはこの質感を好んだのだろうか。 幼い時から絵が好きだった日勝が兄の手ほどきで油絵を描き始めたのは中学生の頃だった。十九歳のとき帯広の平原社展に初出品した「やせ馬」が奨励賞を受賞、翌年の「馬」は平原社賞、翌々には会員に推挙され、そのまた翌年には今度は全道展に「家」が初入選、続いて「ゴミ箱」が道知事賞、やがて東京の独立展にも入選して、忙しい農作業と平行しながらの画業は次第に世の注目を集めていった。 だが相変わらず生活はきびしく、その頃の様子をミサ子夫人はこんなふうに語ってくれた。近くに住むというミサ子さんがたまたま記念館に来ており、学芸員の菅さんが引き会わせてくれたのだ。あるいはわざわざ呼んで下さったのかもしれない。 「五坪のアトリエをようやく増築したのが死ぬ二年前。それまでは絵を描く専用の場所などもちろんなくて、農作業が終わると、母や私が仕事をし、こどもが遊んでいるそばでいつも描いていました。一度など苦心して描いた絵にこどもがいたずらがきをしてしまったことがあったけれど、彼は一度だって大きな声を出したり怒った顔をしたことがなかった」 日勝を語る人の言葉は多いが、いずれもニコニコ笑った誠実な姿ばかりだ。いまここに飾られている大きく引き伸ばされた写真も、あどけないといってもいいような童顔に柔らかな笑みを浮かべた遺影である。 画面いっぱいに痩せた馬(それは日勝の戦友だった)を描いて始まった画歴は、幾度びかの劇的な変遷を経て、最後はまた馬で終わっていた。独特のリアリズムを脱却したかに見えた画風は再び一変して、毛の一本一本までを克明に描き、それが胴体の途中でまるで断ち切ったという感じでぷつんと途切れた、未完の馬である――。 北海道から帰って、私は久し振りに日勝の生まれたあたりへ行ってみた。西武線の線路近く、小さな家々が立ち並ぶ、それは東京の淋しい夏の夕暮れだった。日勝がここで描いていたら、いったいどういう絵を描いたのだろうか。
星瑠璃子(ほし・るりこ) このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。 www@hb-arts.co.jp |