2008年(平成20年)10月20日号

No.411

銀座一丁目新聞

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茶説

三浦和義さんの自殺に思う
 

牧念人 悠々

 どうも気になる事件がある。ロス疑惑銃撃事件である。日本の最高裁で無罪が確定(平成15年)したが、20年にわたるロス市警の捜査結果を期待していたところ、三浦和義さん(61)が自殺(10月10日午後9時43分頃縊死し三浦さんを看守が発見する)、犯人不明のまま事件は幕を閉じてしまった。この自殺は意外であった。新聞・週刊誌・雑誌を相手に550件もの名誉毀損訴訟を起こし、己の無罪の主張を貫くために戦ってきた男の身の処し方としては想像もできなかった。ジャーナリストとして何らの感慨を書かねばならい。   
 1981年(昭和56年)11月18日妻の一美さんが三浦さんと一緒に写真撮影のためロス市内を回っている時、銃撃された。三浦さんも足にケガをする。当時は強盗の犯行と見られた。三浦さんは意識不明の一美さんを米軍機で日本に運び、夫婦愛の美談として報道された。11月30日一美さんが死亡。一美さんに掛けられていた1億6000万円の保険金を三浦さんが受け取る。
 警視庁が三浦さんを1985年(昭和60年)9月11日に逮捕するのだが、容疑は別件の事件であった。1981年8月13日ロスのホテルで一美さんを元女優に頼んで殴打、ケガをさせたとして元女優と共に殺人未遂で逮捕された。一審判決は三浦さん・懲役6年の判決(平成10年に実刑確定)、元女優・懲役2年6ヵ月であった。三浦さんと知人を銃撃事件で警視庁が逮捕したのは1988年(昭和63年)10月20日であった。一審は無期懲役であった。二審では無罪となり最高裁で無罪が確定した。
 私が社長を務めたスポニチも三浦さんから名誉毀損で訴えられた。1988年10月21日付けの記事で三浦さんが家族と一緒にヨーロッパ旅行に出かけた際、義母の告白として「私たちは殺されかけた」と報道したためである。判決は記事に公共性も公益性もなく真実性も疑わしいとして1990年(平成2年)1月14日、名誉毀損に当たるとして50万円の損害賠償を認めた。事件報道をこのように裁判官に決められては困る。事件報道は本筋と離れた記事でも世論の関心を呼び、読者からの捜査機関や新聞社への情報提供のきっかけを作り、捜査当局への激励ともなるのだ。裁判官はどしどし新聞社へ社内研修に来て勉強した方がよい。事件報道には「公共性」も「公益性」も大いにある。
 総務部長が判決文を持って、書いた記者をつれて、「どうしますか」と相談に来た。この頃三浦さんから訴えられた各社は上告すると訴訟費用がかかるという理由からか、一審であきらめるケースが少なくなかったので相談に来たようだ。私は記事を書いた記者に「この記事に自信があるのか」と聞いた。「あります」という。そこで「最高裁まで争え」と指示した。結局は最高裁でも我が社の敗訴になった。どうも時代は名誉毀損の解釈が新聞には厳しくなってきているようである。だが、三浦事件に限らず疑獄、汚職など不正事件に対して新聞が真実を追求するため時には名誉毀損を犯さざるを得ない場合がある。「名誉毀損」に恐れをなしてはよい仕事はできないと、いまでも思っている。。
 三浦さんを逮捕した際、完全黙秘の三浦さんと20日も対峙した警視庁捜査一課の元刑事は「甘やかされて育った気が小さいお坊ちゃまだったと言うことだろう」という感想を漏らしていた(産経新聞)。ともかく一美さんが死んでから26年、三浦和義さんが自ら下した判決が「自死」であったと言うことである。「人間不可解なり」というほかない。