毎日新聞社会部時代の友人桑原隆次郎君が亡くなった(4月15日・享年84歳)。さる雨の日(10月14日)東京・文京区駒込3丁目の「駒込吉祥寺」に赴き、彼の遺骨が納められてある「大慈塔」(一重の仏舎利・永代供養塔)に線香を供え、冥福を祈った。昨今会合には殆ど姿を見せず会う機会がなかった。もともと出不精ではあった。年賀状のやりとりはしていた。
彼とは昭和23年5月、毎日新聞が社会部の警察回り記者を復活した時以来のつきあいである。いろいろお世話になった。妻との結婚には一役買ってくれ、ささやかな結婚式に友人として出席してくれた。人つき合いの悪い桑原君としては珍しいことであった。さらに生活の足しにと背広の裏返しを洋裁の心得のある女房に頼んできた。終戦直後の生活の苦しい時であったので大いに助かった。彼の父親は開業医で、恰幅の良い、優しい近所評判のお医者さんであった。クラシック音楽が好きで週に一度の察回りの会合「木曜会」のあと喫茶店でショスタコヴッチの「革命」などをよく聴いたのを覚えている。クラシック音楽が好きになったのは多分に桑原君の影響がある。
桑原君の察回りの担当は杉並方面で三鷹署はその守備範囲に入っていた。三鷹署管内で昭和23年6月に起きた太宰治と愛人、山崎富栄の歴史的心中事件を取材している。太宰の命日は6月19日になっているが、二人の遺体が引き揚げられた日である。二人は13日夜から14日早朝にかけて姿を消し自宅(北多摩郡三鷹町下連雀)近くの井の頭公園殿山わきの玉川上水に身を投げた。新聞が報道したのは6月16日であった。太宰は終戦後めきめき売り出した人気作家で、朝日新聞に「グッドバイ」という連載小説を執筆中であった。太宰は伊藤左千夫の「池水は濁りにごり藤なみの影もうつらず雨降りしきる」の歌が好きであった。ふりしきる雨の中、桑原君の墓参であったのでつい太宰の心中事件を彼が取材したのをはしなくも思い出した。察回り諸兄はみんな若く、夢中になってよく働いたと思う。
論説委員時代、桑原君から丸山真男さんを毎日新聞の9階にある「アラスカ」で紹介された。私にとっては近づきがたいこの偉い先生と桑原君は親しく話をしていた。「サンデー毎日」で桑原君と一緒に働いた野村勝美君が書いた毎日新聞社報の「故人をしのんで」によれば「桑原さんは特に丸山真男さんの信頼を得て新聞には寄稿しない丸山さんから3編の重要な評論を貰っている。『ハーバート・ノーマンのこと』『《である》ことと《する》こと』『右翼テロを増長させるもの』である」とある。
温厚な人柄であった。よく勉強していた。新聞記者というよりは学究肌の人であった。世俗には恬淡としていた。丸山さんに好かれたとしても不思議はない。私に知らない話だが嬉しい限りである。「サンデー毎日」編集長、学芸部長だった岡本博さんが桑原君を重宝したのもよく分かる。
出版局次長の昭和52年10月31日繰り上げ定年をしている。この時毎日新聞の経営状況が悪く、新旧分離をしようとしていた時期に当たる。潔く身を引いたのであろう。それ以来彼とは顔を合わせていない。時々開いた警察回りの会には常に欠席の通知を頂きながらそのままにしておいたのが誠に残念で慙愧に堪えない。
(柳 路夫) |