花ある風景(326)
並木 徹
ある運送会社の55年創立記念日に思う
会社が55年間続くというのは大変なことである。東京・港区芝浦にある長井運送が今年創立55周年を迎え、その感謝のパーティーが開かれた(10月10日・ザ・プリンスパークタワー東京)。初代は長井一美さんという。元軍人である。戦後立教大学を出て証券会社に勤めたが数年足らずで辞め一念発起して小さな運送会社を妻の静江さんと東京港区で始めた。昭和28年2月であった。大八車から小型トラックへ、さらに大型トラックに、じくざくしながらも会社は発展した。付近の人から「道路をふさいでいる」、「トラックの音がうるさい」と苦情が出た。110番もされた。そのつど永井さんは警察に呼び出された。永井さんはその都度、穏やかな態度で頭を下げた。いつしか周りの人も永井さんの人柄がわかり苦情が出るのが少なくなった。やがて新聞輸送をするまでになった。私との出会いは昭和63年12月、私がスポニチの社長になってからである。深川の越中島の本社に挨拶に来られた。世が世なれば私は永井さんを不動の姿勢で迎えねばならない。実は永井さんは陸軍士官学校の57期生、私は59期生であった。その物腰の柔らかさに驚いた。輸送の仕事をはじめられて既に36年はたつ。すっかり事業家になられたのだから当然であろう。聞けばスポニチとの縁は深く、昭和48年1月スポニチの音頭取りで「東日本釣り宿連合会」ができた時の発起人の一人であった。海釣りが取り持つ縁だったという。
長井運送が今日あるのはひとえに長井静江さんの力によると私は思っている。「肝玉お母さん」という印象が強い。具体的な話は長井さんから何も聞いていない。ゴルフをするたびに「うちの母ちゃんは・・」と口にされた。静江さんは平成11年7月28日なくなられたが、入院する前の日奥さんは長井さんに「お父さん体をふいてください」とせがんだ。永井さんは快く応じた。奥さんの最後の甘えとなった。入院の朝、静江さんは椅子に座って長井さんの靴を磨いて病院に出かけた。今どきご亭主の靴を磨く奥さんはそうは多くはない。なくなられて1年ほどたったころ長井さんの部屋を訪ねた。長井運送のビルの7偕を自宅がわりとしていた。部屋中に静江さんの写真が並べられてあり、等身大の写真もあった。妻を亡くした友人が「街を歩いていると女房がひっよこり旅行から帰ってきたように顔を出すのではないかと思うときがある」と話したことがある。長井さんも同じような気持ではなかったのかと推測する。長井さんは平成18年7月19日、死去された。享年84歳であった。
長井さんは立派な軍人であった。その実績については本紙「花ある風景」(2004年8月20日号)で述べた。強運の人でもあった。その武勲も強運もすべて長井さんの判断、決心、実行力によるものである。子供は親の背中を見て育つという。長井一美さん、静江さん夫妻に育てられた現社長の純一さん、専務の浩さんがその志を継ぎ、長井運送を発展させてゆくのを信じて疑わない。
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