2008年(平成20年)8月1日号

No.403

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安全地帯(222)

信濃 太郎

「山田隆三君のご先祖は「喜兵衛地蔵」であった」

 友人の山田隆三君が自分のルーツ探しの旅に出て、あっちこっち回って一書をものにした。題して『「喜兵衛地蔵」はご先祖だった』。血液型Aの山田君は几帳面で何事にも積極的である。B型の私はおおざっぱで何事もいい加減である。わが祖先は天照大神であると思いこんでいるからルーツ探しなどはしない。それでも昨今、軍人だった父からもっと話を聞いておくべきであったと悔やんでいる。山田君の父親は新聞記者だったから日記帳、スクラップ帳、小冊子「呼醒園」などの資料があり恵まれている。それでも取材に相当苦労している様子がうかがえる。
 山田家は太田道灌の閥流をくむ由緒ある家柄である。代々忠兵衛を名乗り、越後の国新発田藩に属し、江戸神田鍛冶町の邸詰納戸役を務める。父奇作(昭和37年8月72歳で没)の曽祖父忠平衛(明治6年10月51歳で没)が品川で書塾をひらく。父奇作が育ったのは長野県下高井郡山の内町平穏2978番地である。湯田中温泉である。
この山の内町志賀高原平床に「お地蔵さん」がある。安永8年(1779年)中島喜平衛が建てた。曾祖父山田長治郎(明治40年5月58歳で没)の母志げ(明治38年5月72歳で没)が中島家から品川で書塾を開いた山田忠兵衛のもとへ嫁にきている。中島喜平衛という人は偉い人で、岩倉沢の豊富な温水と平坦な地形に着目して田を開き、稲作を計画した。このことは佐久間象山も「鞜野日記」に触れている。巨額な費用を投じて開墾したものの高冷地のため失敗した。この事業で資産を使い果たし困窮し油屋を営み糊口をしのいだと伝えられている。天明5年11月病没する。
 この地蔵さんは上州草津に通じる旧街道にあって冬でも雪の上に姿を見せ、旅人の目印になっている。今回は江戸と湯田中を結ぶ山田家のルーツを250年ほど先まで光を当てた。霊験あらたかな地蔵さんである。
 山田君はよく寄り道をする。ルーツ探しだというのに毎日新聞から西部毎日会館、スポニチまで寄り道する。落語好きとは知らなかった。「寿限無」の名を今なおそらんじているとはたいしたものだ。寺にある過去帳の活用は知っていたが「宗門人別帳」も頼りになるとよい知恵を授けてくれた。
 それにしてもお父さんの奇作さんは素晴らしい人だ。「昭和17年10月20日(火曜日)晴」の日記はさながら短編小説である。これを膨らませば一編の時代小説が書ける。奇作さんの日記は次々に宝を生む。曾祖父山田忠兵衛の妻たけ(昭和6年1月83歳で没)は品川在浜川三十軒家で草分けの旧家、鈴木仁左衛門の長女であった。この三十軒家の人々が幕府転覆を謀り、鈴が森で処刑された丸橋忠弥の首を南品川の妙蓮寺に運んで埋葬している。隠れた義擧である。
 実は山田君とは毎日新聞時代一緒に仕事をしたことがない。だが、どこにいようとも仕事のできる記者はおのずと耳に入ってくる。知りあったのは昭和52年11月27日、社会部記者の結婚式の席上であった。彼は「津軽海峡冬景色」の替え歌をうっただけである。顔を見て、声を聞けばその記者ができるか私にはすぐに判断できる。昭和63年毎日新聞西部会館の社長になった際、事業をやるには誰がよいか考えた時に山田君の顔が浮かんだ。人と人の縁とはそういうものである。まさに“機縁”というほかない。手元においてこの本を折りにふれて読み返したい。


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