花ある風景(318)
並木 徹
シネマ歌舞伎「ふるあめりかに袖はぬらさじ」
シネマ歌舞伎、有吉佐和子原作・中村玉三郎主演の「ふるあめりかに袖をぬさじ」を見る(7月22日・東京・有楽町・ビカデリー1)。2005年1月、野田秀樹・作・演出の「野田版 鼠小僧」の「シネマ歌舞伎」が始まってからこの作品が6作目である。東京の歌舞伎座、京都の南座、大阪の松竹座に足を運ばなくても歌舞伎の面白さ、伝統的演技、美を味わっていただこうという試みである。歌舞伎でもない、映画でもない”新しいメディア”として定着しつつあるという。芸者役お園の中村玉三郎の美しさとすばらしい演技に圧倒されながら初めて見た「シネマ歌舞伎」を堪能した。
朋輩の遊女亀遊(中村七之助)がアメリカの商人イルウス(板東弥十郎)に身請けされるのを嫌って自殺する。その前に密かに恋しあう通訳の藤吉(中村獅童)と別れを告げていた。お抱えの岩亀楼主人(中村勘三郎)とお園が事件を脚色、自殺に使った刃物がカミソリから懐剣となり、自殺の場所も片隅の暗い部屋から引付座敷・扇の間となり、名前も亀勇と名付けられる。攘夷女郎の天晴れな自決として「烈女」に仕立て上げられる。お店もお蔭で繁盛する。映像で大写しにされるお園の玉三郎と岩亀楼主人中村勘三郎の掛け合いは面白く見せる。
岩亀楼は安政6年(1859年)横浜開港に伴い作られた港崎遊郭、1400人も遊女がいた。外国人専門を「唐人口」といった。カタカナ名前の遊女に市川笑也、尾上松也、上村吉弥、中村福助、板東新悟らが扮する。贅沢なキャストである。観客の笑いを誘う。
この頃、日本は勤王攘夷派と佐幕派が激しく争う。攘夷派の外国人への殺害事件も少なくなかった。安政7年(1860年)12月、アメリカの通訳、ヒュースケンが暴徒に襲われ死亡する。文久2年(1862年)5月、水戸の浪士が品川東禅寺にあった英国公使館を襲い、書記官アルコックと長崎領事オクファントの二人を負傷させた。瓦版には無筆であった亀遊が「露をだにいとう倭の 女郎花
ふるあめりかに 袖はぬらさじ」と言う辞世の歌を残した事になっている。お園はこの歌は、新吉原の桜木という花魁が詠んだ歌で、その後攘夷党がもって回っていたことを思い出す。辞世の歌にまつわる話の真偽のほどは分からない。「考証江戸辞典」(南条範夫編・人物往来社刊)には「岩亀楼遊女喜遊自害の図」の絵がある。懐剣を右手に持ち、まさに自害せんとする図が描かれている。その絵の右上に「古今名婦鏡」とある。歌の作者は喜遊(亀を喜と記す)としている。
ラストシーンではお園の「亀勇自決」の話が講釈師のように名調子になる。お客は攘夷派の儒学者で文久2年7月獄死した大橋訥庵が開いた思誠塾の門人達。門人達は中村橋之助、板東三津五郎、中村勘太郎、、市川門之助、、市川段治郎らが扮する。お園が訥庵から安政4年(1857年)に吉原のお座敷で歌を教わったと話をする。その歌から亀遊自決話の矛盾が出てきて、お園は門人達から問い詰められ、あわや斬られそうになる。訥庵の話を口外しないと約束して命だけ助かる。「あーあ、こわかった。ずぶぬれだよ、まあ。ふるあめりかに袖はびしょぬれ。畜生・・・」お園の表情、まさに菩薩が苦悶したように見えた。すごい見所である。時代に翻弄された女が凝縮されている。 |