安全地帯(217)
−信濃 太郎−
「毎日放送報道局長だった辻一郎さんの「私だけの放送史」」
辻一郎著「私だけの放送史」−民放の黎明期を駆ける(清流出版2008年6月9日第1刷発行)を読む。辻さんは1950年代後半を中心として自分の周りの起きた放送をめぐる出来事を書く。また取材で知り合った人たちも登場するので辻さんの交友録ともなっている。話があちらこちらに飛ぶのも面白い。このころ私は新聞記者として警視庁クラブで事件取材に走りまわり、あと社会部の遊軍記者として造船疑獄事件、皇太子妃取材、連載物などの取材にあった。新聞記者と放送記者の違いがあっても事実を掘り下げ、真実を究明、あるいは世相をあぶりだす仕事は一脈通ずるところがある。辻流にあちこち飛びながら感ずるままに書く。
ラジオ東京に入社テレビマンユニオンを設立した萩本晴彦が「テレビジョンは時間である」といった。なるほどと思う。「テレビは絵である」などっといっているから通俗化する。「放送は時間である」と考えたらそこに織り込むものは感動であり、共感である。無為、無感動なものは時間の無駄である。今こそこの原点をかみしめたらどうか。彼が残した言葉「あらゆる新しいこと美しいこと すばらしいことは 一人の人間の熱狂から始まる」
辻さんも「録音ニュース」を含めて「ニュースとは何か」と悩んだようである。ラジオのニュースには音の面白さを加えたらどうかと考える。「ニュース」とは「自分が面白いと思ったのがニュースである」と誰かが言ったが、私は今でもそう思っている。昭和28年テレビが放送を開始した時、新聞の時代はやがて終わるといわれた。私たちはテレビの迫真の「絵」に負けない文章の書き方を研究した。例えば事件を一人称で書けないかという話も出た。その後ネット社会となり新聞は部数を減らしながらも生きながらえている。敗戦直後他社に先駆けて広島に乗り込み「ノーモア・ヒロシマ」と訴えたのはロンドン・ディリーニューズのウイルフレッド・バーチェットである。この記者魂を忘れない限り新聞は生き続けるだろう。
辻さんが会議で没になった歴史シリーズ「20世紀の映像」を復活させるため高橋信三社長を車の前まで追いかけ説得する話は迫力ある。高橋社長は昭和46年、日本教育テレビ発の番組「23時ショウ」を下品な番組としてネット打ち切りをした。テレビ業界の歴史の上で前例のない出来事であった。今はこのような社長はいない。だから「下品な番組」が跋扈している。
私も取材班の一人であった「造船疑獄事件」のことが出てくる。逮捕された自由党の有田二郎と直接取材もし記事にもした。「ロッキード事件」は社会部長として取材班を指揮した。辻さんは毎日新聞OBの佐々木叶が社会部記者時代、ロッキード事件での田中角栄逮捕をすっぱ抜いた男であると書いている。確かに佐々木叶はこの事件では素晴らしい活躍をするが、正確には毎日新聞の裁判所クラブの記者たちの特ダネであった。
辻さんの交友関係は広い。「中国」という雑誌を主宰していた竹内好さんが掲げた6項目を紹介する。1、民主主義には反対しない。2、政治には口を出さない。3、真理において自他を差別しない.4、世界の大勢から説き起こさない。5、良識、公正、不偏不党を信用しない。6、日中問題を日本人の立場で考える。4項目目に辻さんは心酔する。私も同感である。政治学者高畑通敏がこんな砕けた人とは知らなかった。遅れて教室に入ってきた学生が「昨日は徹夜麻雀だったものですから…」と弁解すると、麻雀の名手をもって任じる高畠は「僕に勝てば単位をやろう。しかし負けたら、今後一切、遅れてくるな」といい、徹底的に勝ったという。ともかく高畠さんの本を読みななおしてみよう。辻さんはテレビ番組「70年への対話」など数々のよい仕事をされている。誕生したばかりの民放の情熱とそこで働く人たちの志がよく出ている。