2008年(平成20年)6月10日号

No.398

銀座一丁目新聞

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花ある風景(313)

並木 徹

「過酷な運命に生き抜いた人」

 その人名は「索岳勒礼布」(ソヨルジャップ)としてハルピン学院の22期生(昭和19年3月卒業)の名簿にあった。私の父、定男はハルピン学院の生徒監(昭和8年4月から昭和14年3月まで)を務め、兄、卓は学院の18期生であった。私は6年間、学院の敷地の中にあった職員住宅に住んでいた。ソヨルジャップの過酷な運命に翻弄されたその一生は他人ごとではなかった。
 1925年黒龍江省ハイラル郊外に生まれた、内モンゴル人の彼の運命を変えたのは日本の敗戦であった。その年の10月モンゴル人民共和国ウランバートル党幹部学校に留学するも卒業とともに反革命の容疑で逮捕され、25年の刑を言い渡される。22歳であった。7年後、ウランバートル中央ラーゲリから中国・内モンゴルフフホト監獄へ移される。さらに2年後、青海省の省都・西寧の強制労働所へ。40歳で仮釈放される。44歳の時青海省ツァイダム盆地へ追放される。56歳の時に2年の取り調べの後、名誉回復なる。実に34年間にわたるラーゲリ・収容所・追放生活に耐えた強靭な精神と身体はどこで生まれたのか興味がわく。16歳で学院に入ったソヨルジャップは柔道部で体を鍛え2段になった。清潔好きの彼は監獄の中でも欠かさず毎日冷水摩擦を実行する。冷水摩擦は体に良い。私は62年間続けている。おかげで大病したことがない。精神力は軍事教練で鍛えられたという。団体行動、規律が人間をたくましくしてゆく。彼の心を支え続けたのは「自分はいつか生きて故郷に帰る。必ず生きてここを出るんだ」という思いであった。「このまま死んでしまったら、汚名を着せられたままだ」という人間としての誇りもまた彼の精神力を維持した。それでもめげることはなかったのか、意気消沈した日はなかったのか、彼の真似は私にはできない。
 ツァイダム盆地のヅゥンジャでは10年間、80頭の馬の放牧に生活を送る。その中で家畜の中で馬が一番人間の気持ちがわかり、賢いことを知る。こんな経験をする。古馬の元気がなくなり衰弱してきたのでたくさんの人参を与えた。ほかの馬も横から口を出して食べる。入れ替わりに馬が食べにくるので追い払うわけにもいかない。ところが一頭だけ古馬のそばにいて食べない馬がいる。古馬の息子であった。母親の古馬のそばにいて他の馬を割り込ませないようにさえしている。馬にも親子の愛情があるのに驚く。その夜、彼は母親の夢を見る。やれ切れないとき、彼は学院の寮歌を歌う。「西崑崙」(作詞13期・依馬和康)か「暁星淡く」(作詞22期・小林尚、作曲20期・浜岡義晴)はたまた「北に北斗」(作詞22期・遠藤賢吉)か。寮歌は彼の心を落ち着かせてくれた。
 昔のハルピン学院の学友との交流は住所「日本国静岡県沼津市青木幼稚園気付き・青木襄児様」封筒の表に「万一、青木幼稚園がない場合は、何とか青木襄児を探してくださるようにお願いします」と書いた一通の手紙から始まる。その手紙は戦後廃業していた青木幼稚園の近所の人が受け取り、青木の親戚に連絡され、ソ連のレニングラードの日本領事館の総領事をしていた青木襄児に伝わる。青木からソヨルジャプの親友であった長野県上田に住む山浦盛一へリレーされた。諦めかけていたソヨルジャプのとこへ山浦から手紙と日本語の本と国語辞典が届く。「ソヨリジャプが生きていた」という話は22期の同期生の中にあっという間に広がった。同期生の佐藤四郎と北京で再会したのを手始めに翌年には来日を果たす。60歳でフフホトに私立日本語学校を発足、8年後にはウランバートルで日本語学校(展望大学)を開校する。学生を連れて日本に来日ウランバートルに日本語ブームを巻き起こす。彼は日本語だけでなく「人間教育」もした。「ソヨルジャップの教え子であれば、礼儀正しく、うそをつかない、信頼できる」という評価を得たという。ソヨルジャップの波乱万丈の人生である。よくぞ過酷な困難に耐えぬいたと思う。
 友人、広瀬秀雄君がこのほど東京・吉祥寺の古本屋で見つけた細川呉港著「草原のラーゲリ」(文芸春秋2007年3月7日第一刷)を送ってくれた。私が小学校時代を過ごしたハルピンと縁の深いハルピン学院のことが出てくるので興味深く読んだ。教えられるところの多い本であった。

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