新田次郎原作・十島英明脚色・前進座の「怒る富士」を見る(5月21日・東京・三宅坂・国立劇場)。初演は1980年6月。劇化に寄せて新田次郎は語る。「富士山に天変地異が起こり,宝永山が噴火して富士山麓の村々灰に埋まれ、この復興をめぐる人間と人間、人間と自然の葛藤を描いたのだが、現代においても天変地異は我々の前に常にある」
新田次郎の言う通り今、中国は8月の北京オリンッピクを目前にして「四川大地震」に見舞われ死者六万人を超える被害を出す。「怒る富士」のお芝居の最後のナレーションが胸を突く。「富士山が日本の象徴であることは、昔も今も変わりがない。その富士が怒るときは、世の腐敗がその極みに達そうとしたときだと、伝えられている」
戦後63年太平になれ、国を守る気概も失い、時の首相は戦いに命を捧げた英霊を祀る靖国神社に参拝せず、政治家たちは権力争いに狂奔する。官僚の汚職は絶えず、格差社会は広がるばかり。やがて「富士が怒る」気がしてならない。
宝永4年(1707年)11月23日富士山が大噴火した。降灰に埋まり、田畑が壊滅した村人の救済と復興にあたったのが関東郡代、伊奈半左衛門(嵐圭史)であった。伊奈は誠実で清廉、剛直で責任感の強い武士であった。時世は五代将軍綱吉。権勢をふるのは側用人、柳沢吉保、そのもとに甲斐の武田の流れをくむ勝手方勘定奉行・萩原近江守(武井茂)、大目付・折井淡路守(津田恵一)。これに対抗する、徳川直系の小田原藩主・老中の大久保加賀守(中村梅之助)、公事方勘定奉行・中山出雲守(山崎龍之介)と権力争いを繰り広げる。幕府は復興資金として各藩から禄高百石につき金二両を決める。集まったお金48万両のうち復興資金に回されたのはたった16万両であった。他は大奥改造などに使われる。一方大久保は駿東郡御厨59ケ村を亡所とする。「亡所の住民はどこへ行こうとも勝手次第だ」と言い渡たされる。現代では「後期高齢者医療制度」で75歳以上の者が年金から有無を言わさず「健康保険料」を徴収されるよりもひどい仕打ちである。村人の生活は「食するものはなく,鳥さえも去っていった」有様であった。伊奈半左衛門は己の命と伊奈家の命運をかけて正徳元年(1711年)名主たちをひきつれて公儀へ訴え出た。評定所に呼び出されて半左衛門は糾弾される。彼は屈することもなく幕政のとるべき道を訴え、人間の良心のあり方を説く。壁は厚かったが,評定が終わった後、近江守から駿府の米蔵から米を出荷させる指示書をいただく。かねてからの知り合いで、村民の就職の面倒を見てもらっていた駿府代官,能勢権兵衛(藤川矢之輔)のはからで蔵米が出されて農民たちは救われる。半左衛門は蔵出しの手続きに不備があったとして責任を取り切腹する。時に正徳2年であった。彼の死は村人に復旧の執念と力を与え、幕府へ復旧事業を積極にさせる要因ともなった。舞台では一幕目では無残な姿をさらけ出していた「こぶし」が白い花をいっぱい咲かせていた。今、日本に必要なのは一人の伊奈半左衛門の出現である。 |