2008年(平成20年)6月1日号

No.397

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追悼録(313)

下山事件は自殺である。他殺説は間違いである

  朝日新聞夕刊が連載もの「記者風伝」(第一部)で下山事件の毎日新聞取材班の指揮を執った平正一さんのことを取り上げた(5月13日)。当時他殺説をとった朝日新聞の社会部記者であった矢田喜美雄と対比して4回にわたり書いている。筆者の河合文夫編集員は客観的に毎日新聞が自殺説をとった報道ぶりを記す。これは好感が持てる。
 平デスクは私たち察回りが入社した当時の指導教官であった。下山事件が起きると察回りをすべて現場に派遣、取材にあたらせた。下山事件は昭和24年7月4日に起きた。国鉄初代総裁下山定則さんは日本橋三越から失踪、国鉄常磐線綾瀬―北千住駅間で轢死体となって発見された。総裁は9万5千人の馘首を通告したばかりであった。100人もの轢死体を見た経験を持つ監察医は「自殺」と見たが、時の人だけに東大法医学教室で解剖された。解剖結果は「死後轢断」であった。飛び込む前に殺されたということである。法医学の解剖はあくまでも捜査にひとつの資料を提供するにすぎない。どうしてそうなったのかを調べるのが刑事たちの地取り、聞き込み捜査である。もちろんこのとき毎日新聞も他社と同じく「他殺説濃厚」と報道した。ところが不幸なことに、下山さんらしい紳士が失踪当日の午後現場近くの旅館に一人で休息した事実を特ダネで報ずる(7月8日付)。特ダネが「不幸だという」表現はおかしいが、他社が「他殺説」に傾斜する中を毎日新聞だけが自殺説をとるようになってゆくからである。河合編集委員は「旅館の目撃談は親しい人しか知らない下山さんの癖まで及んでいる」と書く。又「平は予断を持たず、冷静に事実を積み上げて報道する姿勢に徹する事件デスクであった」とも記す。当時平デスクは重役室に呼ばれて「なぜ他殺説を書かないのか」と詰問される。「他殺説は調べてゆくうちに根拠がなくなってゆくのです。私にはウソは書けません」と答えた。また社会部会では「なぜ自殺説ばかりを報道するのか。アカではないか」と罵倒するものもいた。毎日新聞は8月3日朝刊一面トップで「捜査本部は自殺と断定 京合同捜査会議」と報道する。ところがGHQの指示で発表に待ったがかかった。毎日新聞編「20世紀事件史 歴史の現場」には「本紙の自殺報道の背後で、絶対支配者であったGHQが激しく動いていた。下山氏が部下の首きりに悩み、自殺したとすれば、当時の政治情勢の中ででは都合が悪かったのであろう」とある。この特ダネは「幻のスクープ」になってしまった。河合編集委員は「栄光の特ダネは」は一転して大誤報と化したと書く。果たして誤報といえるか、私は疑問に思う。平さんは昭和39年5月「生体轢断―下山事件の真相―」(毎日学生出版刊)を出版する。その中で「私たちは幾度か反省し、調査の結果に再検討を加えてみたが、ついに他殺の線につながることはできなかった」と記す。平さんは言葉を選び、控えめに自殺を主張される。私には歯がゆくてしようがない。いまなお他殺説を唱える出版物が横行しているが、噴飯ものである。平さんは昭和42年、1月16日リンパ腺腫のため死去、62歳であった。不肖の部下は同じ血液がB型というので慶応病院に入院されていた平さんに輸血したのが只ひとつの恩返しであった。だが身をもって教えていただいた「真実と事実の違いは大きい」の教訓は拳拳服用している。平さんの墓には「かたくなと人はいふとも一本のすがしき道をゆきて死にき」とある。熊本県出身、一徹で頑固で誰に何んといわれても一歩も動かないところがあった。古武士の風格を持った新聞記者であった。そのような先輩の部下であったことを誇りに思う。

(柳 路夫)

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