安全地帯(216)
−信濃 太郎−
「「戦場にかける橋」北朝鮮版異聞」
友人の池上昭男君から「面白い本があるよ」と陸士55期の内田照次郎さんが書いた「北朝鮮清川江防空迂回橋」-独立鉄道第11大隊長秘話―(刊行2005年3月・陸軍航空士官学校第59期飛龍隊有志)の小冊子(113ページ)を渡された。一気呵成に読み上げた。敗戦時にこのように活躍した軍人もいたのかと感動した。満州から北朝鮮を経由して引き揚げた多くの一般邦人、あるいは復員してきた軍人たちは内田大隊長が指揮する鉄道部隊が架橋した京義線の「迂回橋」の世話になった。日本人にとって「命の橋」であった。
航空士官学校に進んだ59期生のうち1000名が昭和20年4月末から満州東北地区の各地に分かれて操縦の訓練をした。鎮東(航空21中隊1区隊・2区隊)鎮西(21中隊3区隊・4区隊)で操縦訓練をした同期生たちが敗戦で復員後作った会が「飛龍会」で、池上君もその会員のひとりであった。毎年第1区隊の教官であった高柳健一さん(さいたま市在住・特操1期)を囲む会を開いている。この席上、内田さんの話が出た。鎮東、鎮西で訓を受けていた同期生たちは昭和20年8月、ソ連侵攻とともに特攻として待機を命ぜられるも帰国命令が出て列車で鴨緑江を渡り、北朝鮮の新義州、平壌を南下して京壌,釜山を経て復員したのだが、その年の7月上旬米軍機によって新義州と平壌の間の京義線の清川江の鉄道本橋が爆破されて列車の運行が途絶されるはずであった。彼らが満州と朝鮮の国境を超えたのは8月19日であった。内地―朝鮮―満州の輸送の大動脈である鉄道の橋梁が空爆、爆破された万一の時のことを考慮して本橋に近接して迂回橋を架設して備えた。清川江860メートルの「迂回橋」は本橋が爆破される一週間前に完成されたばかりであった。この橋を架設したのが独立鉄道第11大隊であった。大隊長は内田照次郎大尉。奇しくも高柳教官と内田大隊長は小学校同級の竹馬の友である。もしこの迂回橋なかったならば、同期生たちは清川江のほとりで立ち往生しその後の運命もどうなったか分からない。この鉄道部隊の影の努力に助けられたことを知った飛龍会の世話人の吉満秀雄君が中心となり感謝を込めてその回顧録を出版した次第。
映画「戦場に架ける橋」で有名な泰緬鉄道は日本陸軍鉄道部隊が作ったものである。昭和17年後半から18年末まで、タイとビルマの国境のジャングルを切り開き、全長415キロ、ほぼ東京―大垣間の距離に匹敵する単線軍用鉄道であった。59期生で鉄道兵になったものは52名(59期生名簿には49名の名前しかない)。鉄道兵の士官候補生が50名を超えたのは士官学校創設以来のことであった。
「迂回橋」架設後、独立鉄道11大隊は平壌の駅前にあった若松小学校を宿営地として24時間体制で続々とやってくる避難民の宿営と給食に明け暮れた。さらに、ソ連軍が進駐してくるまでに避難民を38度線以南へピストン輸送した。朝鮮人の機関士が協力しないので,大隊の機関員がこれにあたった。ソ連進駐後ソ連側の指示で日本軍の手で爆破された日本海側の鉄道橋梁・墜道などの修復工事を行う。平壌、文川、咸興,群川,城津、吉州,朱乙、羅南,清津と工事を完了した。平壌でソ連軍の司令官が「鉄道の復旧作業が首尾よく完了したら貴殿の部隊を真っ先に帰還させましょう」と約束したのを簡単に反故にされシベリアに抑留された。当時北朝鮮には陸海軍合わせて12万人の日本軍隊がいたが1000人単位の作業大隊に編成されてシベリアに送られた。若槻泰雄著「戦後引き上げの記録」(時事通信社)によれば北朝鮮における死亡者は軍人を含めて3萬5千人と推定される。軍人の死者9千人、一般邦人の死者は2万6千である。これらは昭和20年8月9日からほぼ引き揚げが完了した昭和21年11月ごろまでの数字である。北朝鮮在留の日本人の概数は満州からの避難民を合わせて30万余である。とすれば、陸路や漁船による脱出者を除けば、迂回橋によって救われた日本人の数は20万人を超える数字になる。北朝鮮版「戦場にかける橋」は隠れた偉業を成し遂げたといえる。 |