「天災は忘れたころにやってくる」といった寺田寅彦には「大正12年のような地震が、いつかは、恐らく数十年の後には、再び東京を見舞うだろうということは、これを期待する方が、しないよりも、より多く合理的である」という言葉がある。四川省大地震の被害は日がたつごとに増えるのを見ると地震の怖さが身にしみてくる。関東大地震は大正12年9月1日午前11時58分44秒、起きた。東京だけでなく横浜、鎌倉、逗子などでも大きな被害を出した。倒壊・焼失家屋13万5千戸、死者9万1千余。進行中の列車が脱線、転覆して、24列車で即死者120名も出ている。関東大地震より既に84年たつ。寺田さんの言葉を借りれば用心するにこしたことはない。
昭和元年1月、東京帝国大学地震研究所員、翌年3月には同大学地震研究所専任教授となった寺田さんは「文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその激烈の度を増す」と警告する。どうも地震多発の予感がしてならない。
寺田さんはエッセイストとしても一流の物理学者であった。大正9年俳誌「渋柿」に「病院の夜明けの物音」を発表して以来、随筆を書く機会が増え、その年の11月、中央公論に吉村冬彦の筆名で随筆「小さな出来事」を書いて以来、このペンネームを使うようになる。こんな話がある。大正12年、アンナ・パヴロヴァが帝劇で「瀕死の白鳥」を演じた時、中央公論がその感想を依頼した。ところが寺田さんは書けなかった。その弁解がふるっている。「重心の置き方をつい力学的に考えてしまうので」(戸坂康二著「ちょっといい話」文芸春秋刊)。随筆を書き始めたのは若い時からである。夏目漱石は寺田さんが第五高等学校時代の英語の先生で、漱石から俳句の話を聞き、自作した俳句を漱石に見てもらっている。東京帝国大学に進んだのちも漱石の紹介で正岡子規を訪問、随筆「星」「祭」が俳句雑誌「ホトトギス」に掲載している。
物理学者である寺さんは俳句についても学者らしい解釈をする。「大陸と大洋との気象活動中心の境界線にまたがる日本では、どうかすると一日のうちに夏と冬とがひっくりかえるようなことさえある。その上に大地震あり大火事がある。無常迅速は実に我邦の風土の特徴であるように私には思われる。日本人の宗教や哲学の奥底には必ずこの自然的制約が深い根を張っている。そうして徘諧に華実もまた実にここから生まれたような気がする」(寺田寅彦著「俳句と地球物理」角川春樹児事務所刊)
寺田さんの俳句。
「客観のコーヒー主観の新酒哉」
「花ちるや色即是空と観ずべし」
「君とあらば凩の世も面白や」
寺田寅彦は昭和10年12月31日死去。享年57歳であった。
(柳 路夫) |