2008年(平成20年)5月20日号

No.396

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信濃 太郎

「1960年代の光と影・熊切圭介の写真展」

  熊切圭介写真展「揺れ動いた60年代の光と影」を見る(5月12日・会期6月17日まで・東京品川・キャノンギャラリーS)。昭和35年から昭和44年までといえば私が毎日新聞社会部・大阪社会部デスク・サンデー毎日デスク、東京社会部デスクの各時代である。私は初めて聞く名前だが、入口に講談社、日刊現代などの花輪が10個。熊切さんは有能な写真家のようである。展示された写真は88点。この中から恣意的に選んで思い出話をする。府中競馬場で行われた第35回ダービーの写真がある。新装なった東京競馬場のスタンドをうずめつくしたフアンは16万人。競馬新聞を片手に馬場に食い入るように見つめるフアンの顔は真剣である。もう1枚は馬券売り場の内部の写真、1000円札と10000円札が大写しである。まだ今日のように自動券売機がなかった時代である。時は昭和38年7月7日。自宅が府中にあったので日曜ごとに競馬場へ足を運んだ。「先見性を養う」と称して競馬に精を出したが、損ばかりしていた。調べてみると、この日のダービーも人気のなかった(9番人気)タニノハローモアが1着、タケシバオーが2着で@―Fで5730円の大穴であった。
 私が取材した埼玉県狭山で起きた「善枝ちゃん殺し事件」の写真がある。写真説明には「遺体がうずめられた農道には報道陣や野次馬が押しかけ現場保存どころではなかった」とある。事件が起きたのは昭和38年5月1日。地方部からの要請で私ともう一人の社会部員が現場に出かけたのは5月4日であった。ちょうどその日は社会部が熱海で年1度の「全舷の日」(全員外出という海軍用語・大宴会の慰労日)であった。この日から現地に2週間ほどとどまって取材した。自宅で行われた貴重な葬儀の写真もある。遺体が霊柩車ではなくリヤカーであるのも珍しい。神式である。神道の我が家では父の葬式では遺体を寝棺に納めて孫たちが担いで運んだ。
 東京で開かれた第18回オリンッピク(昭和39年10月10日開幕)の写真は競技そのもののものはなく、代々木体育館に到着した外国選手たちをバックにずらりと並んだお揃いのトランクとバッグが撮影される。代々木公園での外国選手たちが寝っ転んだり座ったりしているスナップをとる。「参加国数95ヶ国、参加選手5558人。日本は16個の金メダルを獲得した。開催までの7年間でオリンッピクの関連の投資額は1兆円を超えた」と説明にある。ちなみに、大会期間中ソ連の3人乗りの宇宙船成功(10月12日)、英国総選挙(10月15日)フルシチョフ解任、中国核爆発実験(10月16日)などの大ニュースがあった。アジアで初めて開かれた東京オリンッピクは大成功であった。それから45年後、聖火リレーがチベットの人権問題で各地でもめた中で北京オリンッピクは8月に開かれる。少年期をハルピン、大連で過ごした私は成功を祈らざるを得ない。
 江東区夢の島に放置された「第五福竜丸」の無残な写真がある(1968年)。この写真がきっかけとなって水爆実験の犠牲となった「第五福竜丸」の保存運動が起きた。現在は夢の島公園内にある展示館で保存されている。貴重な写真である。
 サリドマイドの子供たちの写真が3枚ある。説明には「サリドマイド系医薬品が原因で1959年ころから四肢奇形児が生まれ始め世界的に大きな問題となった。日本では国と製薬会社の対応が遅れたため多くの被害者が出た」とある。この国と製薬会社の体質は今も変わっていない。サリドマイド児ではお思い出がある。毎日新聞の西部本社代表の時、サリドマイド児の映画を見て感動、職を探しているという本紙地方版の記事を見て早速そのサリドマイドの少女を電話交換嬢に採用した。今でも働いている。
 熊切さんの60年代の光と影写真展を見ていると、現在の日本の社会が抱えているさまざまな問題は当時の問題がさまざまな形を変えて現出しているのに驚く。科学・技術は発達し進歩するが人間のやることはそう変わらない。

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