亡くなった村松暎(今年2月7日死去・享年84歳)にユニークな漢詩の本「さよならだけが人生だ」(php文庫・1994年3月発行)がある。この中に33の漢詩が納められている。第4章に杜甫の「春望」を紹介する。「春望」はまさに「詩は心の中の思いを訴えるもの」である。
国破れて山河在り
城春にして草木深し
時に感じて花にも涙をそそぐ
別れを恨んで鳥にも心を驚かす
烽火 三月に連なり
家書 万金に抵る
白頭掻けば更に短く
渾て簪に勝えざらんと欲す
村松さんは昭和18年大学在学中応召され砲兵隊に入隊する。戦地の経験はなく終戦の天皇の放送を愛知県大府の陸軍療養所で聞く。村松さんはホッとしたという。助かった、これで生きられると思ったそうだ。東京の焼け跡に立った時思い浮かんだのはこの詩の冒頭の二句であった。それは切腹して果てたような人々は別として大半の人が抱いた感慨であったに違いないと記す。
杜甫の子供のころのあだ名である「呑牛児」をペンネームとする同期生がいる。小野三郎君である。すでに平成13年9月に亡くなっているが彼が書き残した論文を友人の前沢功君が送ってくれた。それによると、杜甫は5,6歳のころから大人たちが驚くような大所高所に立った達観したことを「大言壮語」することからそう呼ばれたとある。小野君は満州で終戦を迎えた。昭和20年8月、20歳であった小野君は満州西北端の飛行場で特攻訓練を受けていた。8月9日にソ連軍の侵攻に逢い、急きょ奉天の東方の飛行場に撤退して応戦準備に入ったところで終戦。血気盛んな若者たちは徹底抗戦を意図してその準備にかかったのだが飛行場わきの高粱畑で「終戦の詔勅」を拝聴する。感涙とともに矛をおさめ祖国再建の「くさび」たらんことを志したという。小野君は戦後鉄鋼業界で重責を果たす。
友人の広瀬秀雄君の話によれば村松さんは広瀬君らのシンポジュームのグループと一緒に10回ほど中国旅行をしているという。中国通で文化大革命が始まって間もなく「中央公論」に文革批判、毛沢東批判を書く。骨のある文学者であった。
この本の最後の33番目の詩は于武陵の「酒を勧む」である。
君に勧む 金屈巵
満酌 辞するを須いず
花発けば風雨多し
人生別離足る
最後の句を井伏鱒二が「さよならだけが人生だ」と名訳した。それが本の題名となった。
(柳 路夫) |