2008年(平成20年)2月20日号

No.387

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茶説

クライマー同士の夫と妻の絆に感動する

牧念人 悠々

  NHKテレビで「夫婦で挑んだ白夜の大岸壁」を見た(1月7日)。グリーランドの無人島にある高さ1300メートルの前人未到の大岸壁を登った山野井泰史・妙子夫妻には深く感動した。さらに住んでいる奥多摩湖の近くの畑で野菜の手入れをする妙子さんの表情と動作に驚いた。実に柔和で落ち着いた、いい顔をしている。観音菩薩といって良い。その物腰は一流の武芸者の雰囲気があった。さすが世界一の女性クライマーである。彼女自身「私は強いというより。鈍感なのよ。痛みにも鈍感だしね(二度の凍傷で両手足合わせて18本の指がない)」と謙遜する。その鈍感力が「どんな状況に置かれていても、自分のベースを崩さず、家にいるかのように振る舞える」のだと私も思う。
 この夫妻には前から関心があった。泰史さんの父親、山野井孝有さんとは知り合いだからである。毎日新聞労働組合史にその名がしばしば登場する。とりわけ毎日新聞が新旧分離したころ活躍された。私は労使交渉の席上、机を隔ててよく顔を合わせた。
 世界第15位の高峰、ギャチュンカン(7952メートル)で雪崩にあい,九死に一生を得た夫妻の物語はすごい。2002年10月8日午後1時半,泰史さんはギャチュン北壁から登頂に成功した。体調が悪く7500 メートル近くで待つ妙子さんと合流、翌日は7200メートル地点でビバーク。翌10日夕方、雪崩にあう。妙子さんの体はロープにぶら下がり宙づりの状態であった。やがて手足の置き場を捜し岸壁に身をせることができた。このとき妙子さんには手足を動かすだけの体力はなく雪崩のショックで目もほとんど見えない状態であった。50 メートル下で待つ妙子さんを救うため泰史さんは下降を開始する。その作業は困難を極めた。手袋越しでは雪に埋もれている岩の割れ目を探しにくく、ハーケンが打てない。やむなく凍傷覚悟(気温氷点下30度)で手袋を脱いで作業を始める。4本のハーケンを打つのに使った指は左右の小指、次に左右の薬指、必要のない指から選んだ。妙子さんのところにたどりついたのは4時間以上もかかった。二人は垂直にぶら下がったままビバークする。さらに氷河上でビバークして雪崩に襲われてから3日後にベースキャンプにたどりついた。奇跡の生還であった。ネパールの病院を経て日本の病院に運ばれる。二人は指を失った。だが夫婦の絆は切っても切っても切れなくなった。世界中を探してもこんな夫婦はいないだろう。
 二人が知り合ったのは1990年の秋、ヒマラヤ・プロードピークの遠征隊である。妙子さんは経理担当で当時34歳、泰史さんは新進気鋭「最も天国に近い男」と言われた。当時25歳であった。二人の距離を近づけたのは昆虫や自然の話であった。相前後して入院するとお互いに見舞いに通い、2年後の3月、奥多摩で一緒に暮らし始める。最近の年収は原稿料や泰史さんの著作の印税で300から400万円ほどである。二人とも今の暮らしに満足しているので余分な仕事やスポンサーの申し込みを断っている。やりくり上手な妙子さんは月10万円もあればやっていける。泰史さんは優しい。常に妙子さんのことに気を使う。今回の登壁でも指のない妙子さんのためにハンマーの柄の部分を妙子さんの手に合わせてナイフで削って使いやすく工夫した。山での二人の会話は活字にすると素っ気ないが、その声に二人だけが通じ合ういたわりがあるようおもえる。2007年8月16日午後10時37分、夫妻と世界的クライマー木本哲さん(51)が未踏の大岸壁・オルカに初登頂した。最初に登ったのは妙子さんであった。最後の壁のトップの名誉を泰史さんが譲ったからである。
 北極圏のビックウォールからの絶景は成功者のみが味あう。今回NHK出版から出された「白夜の大岸壁に挑む」−クライマー山野井夫妻(2008年1月30日刊)に詳しい。その記録は読んでいても手に汗が出るほどであった。

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