2007年(平成19年)12月20日号

No.381

銀座一丁目新聞

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追悼録(297)

昭和天皇と宮内庁記者・藤樫準二さん

  毎日新聞のOBの同人誌「ゆうLUCKペン」(第30集)刊行記念の集いが開かれた(12月8日。パレスサイド・ビル・9F・アラスカ)。この同人誌に出版局図書第3編集部長であった高杉治男さんが伝説の宮内庁記者・藤樫準二さんを登場させて「昭和天皇様に『お詫び』」と題して興味ある秘話を紹介している。
 藤樫準二さんは大正9年から死ぬまで(昭和60年7月22日死去・享年88歳)65年間、宮内庁記者であった。昭和30年代の秋、社会部に『皇太子妃取材班』が三原信社会部長(後に杉浦克巳部長に代わる)の下に編成されたとき一緒であった。その時のメンバーは柳本見一デスク、富樫さん、桐山真、藤野好太郎、小峰澄夫、清水一郎、古谷糸子、富永千枝子、牧内節男であった。すでに藤樫さん、三原さん、杉浦さん、柳本さん、桐山さん、藤野さん、古谷さんは故人になられた。この取材で毎日新聞はいち早く皇太子妃候補の正田美智子さんを探り出し、清水記者の美智子さんとのインタービューなど事前取材した記事を8ページの特別夕刊として婚約発表に日に発行、他社を圧倒した。この際、藤樫さんの存在は大きかった。大事な事の確認はすべて藤樫さんにしていただいた。藤樫さんの本には「相談役でとして参加した」と謙虚に書かれている。藤樫さんは万事に控えめで温和方であった。
 高杉さんは昭和天皇が『ご在位五十年式典』を昭和51年に挙げられたタイミングに合わせて藤樫さんの「天皇とともに五十年―宮内庁記者の目」を出版した。昭和52年11月20日のことであった。それから十数日後、藤樫さんから連絡がありパレスサイド・ビル地下1階の喫茶店で会うと、陛下が本のミスを発見されたいというのだ。本の冒頭4ページに陛下のお写真が6枚飾られてある。最後の4ページ目の写真説明に「背広姿でマッカーサー元帥をご訪問(20年9月27日)」とある。戦後天皇が初めてマッカーサー元帥と米国大使館でお会いになった有名な写真である。このとき陛下はモーニングにシルクハットを召されたと報道されている。背広姿でなくモーニングであった。陛下は藤樫記者が侍従を通じて謹呈した本をすぐに目を通されて「ミス」を発見、側近を通して”ご注意”となった次第。調査部からかり出したこの写真には「背広姿で・・・」となっている。写真を見ればモーニング姿であるのは一目でわかる。過ちというのは得てしてこうして起きる。前任者のミスをそのまま過ごしてしまう。高杉さんはどう処置したらよいか相当悩まれたようである。刷り直せば会社に重大な損害を与え懲罰ものだ。辞表もしたためて懐に入れた。
 高杉さんの気持ちを知ったのであろうか、藤樫さんは電話で「陛下には私かお詫びしておきました。もし、増刷の機会があれば、そのときに直しておいてください」と暖かい連絡があった。残念ながら増刷の機会はついに訪れなかった。
私の手元にも藤樫さんの「天皇とともに五十年」の本がある。藤樫さんは前書きに昭和天皇の御製を紹介している。
   
  身はいかになるともいくさとどめけり
       ただたふれゆく民をおもひて
 毎日新聞にはすばらしい先輩が少なくない。藤樫さんの3女と一緒になった松野尾章君(毎日OB・メキシコ。オリンッピクで一緒に取材した仲間)に、この話を電話で伝え、「ゆうLUCKペン」を送った。数日して松野尾君から手紙と藤樫さんの本が送られてきた。手紙には「初めて知った『天皇と背広写真説明』の話。ワイフなど近親のものにとっては準二記者の思い出話に新たに一コマを加えることができました」とあった。

(柳 路夫)

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