大野雑草子編「文学忌俳句歳時記」(博友社)の11月の冒頭の文学忌は「陽平忌」である。私はどのような人か知らない。昭和元年熊本の生まれで平成7年11月1日、死去、69歳。代表句碑が日野市高幡不動にある。≪囀りの十方界や晴れて来し≫。高幡不動は家の近くである。散歩がてらに訪ねてみようと思う。法名・菩提寺・代表句。句碑まで紹介されている。この歳時記には感心する。丁寧で細かく、粘り強く調べ上げられている。私の好むままに「文学忌」を他の資料と合わせて見てみる。
「芭蕉忌」桃青忌・時雨忌・翁忌・陰暦10月12日、元禄7年(1694年)大阪御堂筋の花屋仁左衛門邸にて≪旅に病んで夢は枯野をかけ廻る≫という辞世を残して病没、51歳。塚本邦雄著「句句凛凛」(毎日新聞)によると、「臨終は申の刻、すなはち午後4時ごろであったと伝える。その夜、遺骸は長柩に入れて川船で大阪をたち13日暁伏見から大津を経て膳所の義仲寺に運んだ。14日の葬儀、焼香する者八十人、参ずるもの三百余人」とある。10月12日全国各地で開かれる芭蕉祭、俳句供養が紹介されている。
「白虹忌」11月18日。昭和58年(1983年)胃癌で北九州中央病院で死去、84歳。死ぬ1週間ほど前に私は見舞いに行った。もちろん葬儀にも参列した。私の最も好きな句「ラガーらのそのかちうたのみじかけれ」がちゃんとある。「白虹忌端山の紅葉はじまりぬ」(横山房子)「海山の冬へ吹き晴れ白虹忌」(寺井谷子・白虹さんの4女)
「家康忌」陰暦4月17日。元和元年(1616)死去・74歳。はじめ駿府久能山に葬られたが翌年日光山に改葬、日光東照宮が建立された。佐伯泰英著「夏燕ノ道」−居眠り磐根江戸双紙−によれば「元和3年徳川家康の死の翌年、天台宗の僧侶天海の発案を受けた二代秀忠は朝廷に神号「東照大権現」を要請し、下賜された。そこで久能山に葬られていた家康の遺骸は永久埋葬地日光へ移された」とある。
「三島忌」憂国忌・由紀夫の忌11月25日昭和45年、東京市ヶ谷の自衛隊総監室で割腹自決。45歳。墓は府中の多磨霊園にある。辞世「益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜」「散るという世にも人にもさきがけて散るこそ花と咲く小夜嵐」
毎日新聞の友人徳岡徳夫記者は三島に手紙で呼び出されてこの朝、現場で取材した。陸士の同期生鈴木七郎君が当時市ヶ谷で自衛隊幹部学校の幹部高級課程の学生として講議を受けていた。同じ建物の中で事件を知り、事の意外性に驚いたと述懐している。三島が希望して入校、教育訓練を受けた陸上自衛隊富士学校上級幹部課程で三島の学友は防衛大学4期生の菊池勝夫一等陸尉(現偕行社事務局長)であった。菊池一等陸尉は東北人特有の純朴・誠実・寡黙な人物で三島とは肝胆相照らす仲となった。三島の体験入隊が終わった後も二人の交友が続き交換した書簡は20通を超えたという。当時の菊池一等陸尉の思いをある人が次のように推測した。「三島さんは自衛隊を愛するが故に死んだ。憲法を改正して国軍にし、隊員に軍人の自覚を与えたかった。それでこういう行動に出た。自分を含め自衛隊幹部は三島さんの気持ちを受け止めようとしなかった。憲法改正にむかって声を上げることもしない。我々を見て三島さんは無念の思いで死んでいったに違いない。生命を賭して自衛隊幹部に訴えたかった魂の叫びを無駄にしてはならない」(「平成留魂録」―陸士59期予科23中隊T区隊より)。「戦中のわが青春や三島の忌」(加藤岳雄)「玉砂利を踏む音高し憂国忌」(清水哲子)
最後の文学忌は「蕪村忌」である・陰暦12月25日。天明年(1783年)胸痛で死去、68歳。句碑=結城城址「ゆく春やむらさきさむる筑波山」子規が蕪村を高く評価したので明治30年ころから季題として定着したという。「一舟の寒さ曳きくる蕪村の忌」(平沢陽子)
(柳 路夫) |