2007年(平成19年)10月20日号

No.375

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

茶説

戦乱の中に咲いた「サラエボの花」

牧念人 悠々

 ボスニア内戦は(1992年から1995年)は死者20万人、難民・避難民200万人を出した。第二次大戦後に起きたヨーロッパにおける最悪の紛争であった。12年前の出来事である。戦後62年、日本は一度も戦争に巻き込まれず平和に暮らしている。平和すぎる。
 ヤスミラ・ジュバニッチ監督の映画「サラエボの花」(12月1日から岩波ホールで上映)を見てつくずくそう思う。同時に女性の強さにも感嘆する。映画の主題はこの「母親の愛」にある。
 かって戦火の街サラエボ・グルヴィツァ地区でシングルマザーのエスマ(ミリャナ・カラノヴィツチ)は12歳の娘サラ(ルナ・ミヨヴィツチ)と暮らす。山々に囲まれたサラエボは戦争中にセルビア人勢力に包囲され長期間にわたって市民は砲撃と狙撃兵の標的にされた。この地区はセルビア人勢力に制圧されていた場所である。エスマは収容所で敵兵士に何回もレイブされ、そのはてに生まれた子供がサラであった。何度も流産させようとしたが果たさなかった。生まれてきた赤ん坊を見て「これほど美しい物が世の中にあるのか」と思い育だてる決心をする。サラには父親はシャヒード(殉教者)で死体は見つからなかったことにする。修学旅行に行く際、シャヒードの生徒は修学旅行の費用が減額されるというのに、その証明書を出してもらうわけにいかない。さりとて生活補助金とナイトクラブの稼ぎで生活するエスマにはその金が払えない。思いあぐねたエスマは友人達のカンパで救われる。貧しい者達が助け合うのはどこの國でも同じだ。
 エスマは同じナイトクラブで働く用心棒のペルタ(レオン・ルチェフ)と同じような戦争体験を持つ者として次第にうち解けて車で自宅まで送ってもらうようになる。母親に次第に不信を抱いていくサラはペルダの車で帰宅したエスマに暴言を吐く。激しい母娘喧嘩の末、エスマは心の奥底に封印していたおぞましい「真実」を吐き出す。サラは自分で髪の毛を刈り坊主頭になる。修学旅行のバスからエスマに笑みを見せながら手を振る。新しいサラの出発であり自立した姿でもある。
 映画は冒頭集団セラビーのシーンから始まる。主人公エスマは容易に口を開かない。エスマが通勤バスの中で胸毛を露出した男性におびえたように降りるシーンを描いてエスマの心の傷の深さを見せる。時折感情に駆られてサラに理不尽な所作を見せる。それでも子供は育ってゆく。親の愛の深さ故であろう。映画は見る人の思いと感受性で受け取り方が変わってくる。それでも教えられるところが大きい。

このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。(そのさい発行日記述をお忘れなく)
www@hb-arts.co.jp