毎日新聞西部本社のOBで名物男の板倉輝男さんが亡くなった(8月23日、享年98歳)。律儀な方で毎年年賀状と暑中見舞いを欠かさなかった。今年も頂いた。その生き方は常に前向きで長生きのお手本であった。元気なものと思い込んでいたところ、10月の毎日新聞の社報でその死去を知った。一年前に食道ガンにかかられた。手術はせず、外部に伏せられていた。9月20日東京本社で開かれた物故社員追悼会で新しく合祀された139柱の中には95歳以上の新合祀者が7人もおられたが、板倉さんの名前はなかった(来年合祀)。
板倉さんとの付き合いは私が昭和56年6月西部本社の代表になってからである。すでに定年退職(昭和38年10月)されておられた。暇があるとぶらりと代表室に顔を出され、雑談をした。ある時、元気の秘訣をお訊ねしたところ、ポケットから若い女性と一緒に写った写真を出されて「これです」とニッコリされた。折にふれて社長に意見具申されたようである。そのつど「返事がきました」と告げられた。西部代表(昭和41年から2年間)をされた会長の平岡敏男さんが来られた時は必ずOB会を開いた。板倉さんはいつもほぼ同年輩の平岡さんのそばに座られ、談笑されていた。無欲で恬淡とされた平岡さんを尊敬されていたのであろう。その様子がよくわかった。平岡さん句に「門司の灯の美しき夜の生ビール」がある。西部本社の同人たちと飲む酒がひとしお美味であったのであろうか。
板倉さんは西部本社では厚生課一筋で、会社の保養施設「めかり荘」開設の功労者である。この保養所は安くておいしい「ふぐ料理」が有名で私もよく利用した。
西部毎友会会長、篠原治二さんが社報に書いた「故人をしのんで」によれば、戦時中釜山日報に記者として活躍、特派員として北支戦線にも従軍、そのころの切り抜き帳を大事にされていたという。記者時代が忘れ難かったのであろう。板倉さんの“行動力”抜群の理由がやっと私には理解できた。板倉さんの年までにはあと16年もある。私も好奇心旺盛に前向きに生きよう。
(柳 路夫) |