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小さな個人美術館の旅(41) 安田火災東郷青児美術館 星 瑠璃子(エッセイスト) あっと息をのんだ。一瞬、海辺に降り立ったのかと思うほど濃い霧が流れていたから。安田火災東郷青児美術館は、新宿副都心、安田火災海上本社ビルにある。エレベーターを四十二階で降りるとそのまま美術館に入るのだが、ロビーの大きなガラス越しに見遥かす街がすっぽりと乳色の霧に包まれていたのだ。東京で、こんなに深い霧を見た日があっただろうか。霧は濃く薄く流れて、超高層ビル街の屋根々々を、豆つぶのような人を、車を、すっぽりと覆いつくす。ロビーの椅子にかけて、しばらく外を眺めていた。微かに見えていた御苑のうっすらとした緑も、見る間にかき消えた。 「まるで東郷青児の絵のようだ」 と私は思った。パレット・ナイフでホワイトを塗り、乾くと塗り、また乾くと塗りしてキャンバスを陶器の肌のようにして描いたという東郷の、あのグレイに沈んで、しかも底光りのするような絵肌が思い浮かんだ。 けれども美術館を一歩中へ入れば、絵は思っていたものとはまるで違っていた。生誕百年、没後二十年を記念して開かれている大規模な回顧展は初期の作品から始まるのだが、まず現れる作品の、速度感あふれる幾何学的な線の交錯や構成の鮮やかさときたら。霧の中に浮かぶ蝋細工のような女人像とは全く別人の作だ。 その一つ、「コントラバスを弾く」は、ドイツ帰りの若き作曲家山田耕筰と知り合い、東京フィルハーモニーの練習場の一室を使わせてもらって描いていた頃の、画家自身の言葉を借りれば「色彩の交響で独特の画面をつくり出した」カンジンスキーばりの前衛的な大作で、東郷青児の作品をあの独特の美人画で思い描いている人がいたとしたら(じつは私もその一人だったのだが)、まして、かつてマスコミを騒がせた華麗な女性遍歴や、東郷の手になる、あの一世を風靡した洋菓子店の包装紙や、挿絵や装丁や翻訳やその他さまざまなあまりに軽やかな衣装を知るものには全く意表をつかれる展観なのであった。 「私の若い頭脳は感激にこおどりする毎日だった」と、山田耕筰からヨーロッパの新しい美術についての話を聞き、彼が持ち帰ったココシュカや、ムンクや、カンジンスキーやの複製や版画を見、描きまくった当時のことを、東郷は後に書いている。描きためた絵を「いちど並べでみないか」と山田に言われたのは、そんなある日のことだった。 日比谷で開かれた初めての個展は、たまたま作家の有島武郎の目にとまり、彼が弟の画家、二科の有島生馬に是非見るようにすすめ、東郷の二科会出品の契機となった。二科はその前年、文展(文部省主催の美術展)に抗して前衛的な方向をめざして発足したばかりの美術団体。その第三回展に初出品した「パラソルさせる女」が、二科賞を受賞、十九歳の東郷青児はまさに彗星のごとく画壇に登場したのである。 1897年(明治30)鹿児島生まれ。五歳の頃一家で東京へ出て、本所、神田、麻布と転々とした後、牛込の若松町に移って余丁町小学校(ここでは林武と同級だった)を卒業、青山学院中学部に進んだ。当時の青山学院の図画教育がいかに進んでいたとはいえ、絵画における基礎教育は小学校と中学だけという、いわば野育ちの「少年天才画家」の、なんとも華々しい登場であった。その「パラソルさせる女」も会場に並べられていた。 時代を追っての展観は、模索の時代、パリ留学以後の様式の確立の時代、円熟期……と、広々した幾つもの展示室を存分に使って続き、かの女人像が現れるのは、昭和に入ってから。その後は、場面や人物の構成などに変化はあるものの、同じタィプの美人画をずっと描き続けている。 ところで東郷青児と安田火災の縁は、戦前、まだ東京火災といった頃に始まっている。東郷の絵で有名な同社のカレンダーは、1934年の二科出品作以来といわれるから、今年で六十五年も続く勘定になる。ヨーロッパから帰朝して幾年も経たず、絵だけでは食べていけない当時の東郷の作品を、パンフレットやカレンダーに積極的に取り上げ、あらゆる機会にバックアップし続けたのが安田火災の歴代社長だった。戦後、復興二科会のリーダーとなって活躍し、功なり名遂げた画家から、所蔵の全作品を無償で提供したいとの申し出を受けて、新宿西口の高層本杜ビル建設を機に美術館か開館したのは1976年のことである。二年後、画家は八十歳で没した。
初期は別として、東郷芸術の特色はフェミニズムとロマンチシズムだという。女体礼讃の絵画とも言われた。でも本当にそうだろうか。大きな胸とくびれた腰をもつ女の乳色の肌はどれも美しいけれど、一度だって血が通っていたことはないような気がする。それは、触ればひんやりと冷たいマネキンの肌だ。晩年になって、砂漠地帯の貧しい女が登場したり、エア・ブラシで描いたような滑らかな絵肌が一変し、突如として厚塗りの作品が現れたりするが、それとて同じ、という気が私にはする。 この人は本当はニヒリストだったのではなかろうか。生涯の作品を展望する回顧展を見終わって、ふとそんな気がした。そう思うと、「恋人」の一人だった作家宇野千代が書くところの東郷青児もいくぶん納得がいく。大衆に最もよく知られ愛された画家というけれど、私にとって東郷青児とは、やっぱり謎の画家だ。外に流れる今日の深い霧のように、いつも実体を覆い隠す。 なお、この美術館は東郷の他にセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、グランマ・モーゼスなどを持ち、なかでもゴッホの「ひまわり」は有名だ。収蔵品の展示の他に年に数回、大掛かりな企画展を開いている。
星瑠璃子(ほし・るりこ) このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。 www@hb-arts.co.jp |