安全地帯(190)
−信濃 太郎−
検事と被告人との間
人の一生は判らない。その人の性格が大きく影響するのははっきりしている。「右か左か」と言うときその人の性格が決める。それを運命と言う人もいる。元特捜検事・弁護士・田中森一さん(64)にその思いを強くする。田中さんは石橋産業手形詐欺事件で逮捕され、一審で懲役4年の判決、二審で懲役3年の判決で現在最高裁に上告中である。検事という職業を天職と思い、上司に楯突かずに検事を続けておれば、たたぎあげでも、それなりに優秀な検事として処遇されたであろう。
「我慢」「忍耐」はどこの世界でも要求される。「正義感」「人としての志」がそれを許さない場合がある。彼の場合は後者で「辞任もやむを得ない」という気もする。辞任の切っ掛けの一つは「三菱重工業転換社債事件」である。1000億円もの転換社債が政界工作のために使われた疑いが強く、防衛庁を巡る一大疑獄事件になる可能性があった。検察上層部はこれをシャットアウトした。有能な検事ほど圧力が掛かる。最後にとどめを刺したのが「苅田町長汚職事件」である。住民税を盗み、それを裏金としてプールしてきたというものである。さらにその町長が衆院選に立候補するに当たり、派閥の公認料として5000万円を出したという落ちまでついた。ところが直接調べた東京地検から福岡地検へ事件が移送されてあっけなく事件が終わる。それから2ヶ月後東京地検へ辞表を提出、大阪地検に戻り、12月検事を辞める。検事生活17年であった。
田中検事は被疑者を自白させるのがうまい。撚糸工連事件では民社党の代議士を平気で「貴様何様と思っているのだ」と怒鳴りつけて白状させている。ある暴力団の抗争事件でヤクザの親分が「日本刀など持っていない」と頑強に銃刀法違反を否認する。そこで押収した日本刀を机を挟んで向き合う親分にポーンと渡して「これやないか」と念を押した。この度胸の良さに親分はあっさりと自分の罪を認めた。田中さんが人に気持ちを読むのがうまいのは自分自身が苦労をしているからであろう。長崎県平戸の漁村に生まれ定時制高校・予備校夜間部で苦学し岡山大学法文学部へ入学、在学中司法試験に合格した苦労人である。ある贈収賄事件で被疑者である社長夫人が末期ガンになり病院に入院した。弁護士から拘留の執行停止が申し立てられた。田中検事は病室の監視もつけずに夫妻を病室で自由に面会させた。「逃げられた場合どうします」という部下の心配を「おれが辞表を出せばよい」と割り切る。この人は度胸がよい上に情けも十分ある。この情けが石橋産業事件で主犯の許永中を裏切ることができなかった所以であろう。
この夏、田中森一著「反転ー闇社会の守護神と呼ばれてー」(幻冬舎)を堪能した。 |