2007年(平成19年)8月10日号

No.368

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花ある風景(283)

並木 徹

ペリリュー島玉砕の将兵を偲ぶ

 同期生吉満秀雄君から水戸の陸軍歩兵第二連隊(中川州男大佐・陸士30期)以下11000名の勇士が眠る「ペリリュー島」を訪問(2006年11月24日)した記録を頂いた。その訪問記に他の資料も付け加えて英霊を偲ぶ。
 ペリリュー島は東京の南4000キロにあり,南北13キロ,東西5キロ,人口千人足らずの,周囲を珊瑚礁で囲まれた,北緯8度の常夏の島である。大東亜戦争の時,この島に海軍の飛行基地があった。フィリッピン奪回を目指す米軍には必要な島でした。歩兵第二連隊3588人が満州北部ノンチャンから昭和19年4月この島を守備するために派遣されてきた。中川大佐の口癖は『兵の精強は訓練によって成就される。結局,戦いに勝つ軍隊は,訓練通りに戦える軍隊だからである」であった(児島襄著「指揮官」上・文春文庫)。米軍が2日か3日で落すと豪語したペリリュー戦は3ヶ月もかかった。
昭和19年9月15日米軍48000人がぺりりュ―島とその南13キロのアンガウル島を攻撃してきた。それに先だち日本軍は島の全住民をより安全なパラオ島に移住,避難させた。世界戦史のその例を見ない凄酸苛烈な戦闘が展開された。戦争当時の米軍の写真を見ると,島の木という木は幹ばかりが残る丸裸で,戦いの激烈さが分かる。衆寡適せず遂に11月24日軍旗,秘密書類も全部処理したあと「サクラ、サクラ」と打電して壮烈な玉砕をした。
吉満君の鹿児島の加治木中学校、広島幼年学校で3年先輩の烏丸洋一中尉(56期)は歩兵第二連隊の連隊旗手であった。烏丸中尉は米国のラスベガス生まれ,9歳で帰国した。宮野澄著「血壁」(ある時代の青春陸士56期生・毎日新聞刊)によるとアメリカの小学校時代から秀才の誉れが高く日本に帰国する際、学校側は両親に「アメリカに残して欲しい。私たちが面倒を見ます」と言わせたほど頭がよかった。広幼(41期)、陸士56期生の優等生(恩賜は10人)で中川連隊長と最期まで運命をともにした。
吉満君は烏丸先輩を含む将兵の激戦苦闘を偲び慰霊したいと62年目に当たる11月24日島を訪問した。ペリリュー神社にお参りしてからラストコマンドと呼ばれる中川連隊長の最後の同窟までジャングルの中を歩いたが急に気分が悪くなり現地の人に助けられてやっとたどり着けたという。万感の思いが彼に襲い掛かったのであろう。分かるような気がする。神社境内に米海軍ニミッツ司令官の日本軍の奮闘を称える記念碑がある。吉満君が写真に収めている。昨年7月10日号本紙「追悼録」「祖国の為に勇戦,戦死した人々を忘れるな」でも紹介したがもう一度記す。「諸国からこの島を訪れる旅人よ 帰り伝えよ この島を守り 全滅し果てた日本将兵がいあかに祖国を愛し いかに勇敢に戦ったかを」
一粒の米もない日が続き、部下が出撃を進言しても中川連隊長は「軍人は最後まで戦うのが務めだ。百姓がクワを持つのも兵が銃を握るのもそれが務めであり最後まで務めははたさんならんのは,同じだ。務めを果たすときは、だれでも鬼になる。まして戦いじゃけん。鬼にばらんでできるものじゃなか」(前掲「指揮官」より),現代人にこの責任感,愚直さか欠けている。なによりも国のために戦って戦死した人の顕彰を忘れているのが残念である。

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