安全地帯(187)
−信濃 太郎−
世界を制した日本のカメラ
新聞社にいたのでカメラには興味があり「報道写真」には強く惹かれる。時代はデジカメであり、医療カメラ全盛である。オリンパス社長・最高顧問を勤めた下山敏郎さんの「世界を制した日本のカメラ」(自由社刊)を興味深く読んだ。教えられるところも多かった。
2006年4月22日新聞に小さな記事で「ライカ銀座に直営店」と出る。多くの人たちは見逃してしまう。私は知らなかった。常に世界の市場に君臨し市場をリードしてきたライカがカメラ流通業界とは無縁の宝飾店や高級ブランド店のように様変わりしたことに下山さんはある種の感慨を持つ。カメラ大国であったドイツはマルク高とニクソンショックと技術革新の遅れなどのためカメラを生産する会社がなくなった。1960年代、西独は世界最大のカメラ輸出国であった。生産数量は340万台、日本では186万台にすぎなかった。(最盛期の日本のカメラの輸出は2300万台)。この小さな記事にひとつの歴史の終わりと高級品だけの新しい歴史の始まりを語る。あだおろそかに新聞は読めない。
下山さんのオリンパス入りも面白い。陸士58期の航空特攻要員として敗戦を満州奉天で迎え、部隊長、島田安也中佐の「地を這い、草を食み、犬、豚となっても祖国再建に尽くせ」訓示を胸に復員。かつぎ屋をしながら東大で哲学を学ぶ。卒業後、紹介されてオリンパス(創業1919年)に行くと「経理と倉庫の席がある。どちらに行くか」と聞かれて躊躇なく倉庫番を選ぶ(1949年)。朝鮮戦争勃発で営業部にまわされる。天は才能ある人を見捨てはしない。
1955年ニューヨークに「日本写真機工業会」が設立される。センターのショールームに訪れるお客が「日本にはドイツから技術者は何人働いているか」とよく質問する。一眼レフやレンズの設計は日本人ができるはずがないと思っている。それだけドイツカメラは戦前から市場ですべてということであった。
同じアパートに住むミセス・ガットマンからドイツ語トフランス語のレッスンのかたわら世相の解説やヨーロッパ式マナー、教養、しつけなどの話を聞く。この2年間のレッスンは日本人に足りないとして塩野七生さんがいう「リベラル・アーツ」であった。センターのショールームでよくカメラが盗まれた。あるときカメラを盗んだ白人を追いかけて格闘の末、捕まえたが集まってきた婦人連中に傘で頭や顔を突き、鋭いハイヒールで頭をけってきた。怖くなって手を放した隙に泥棒は逃げてしまった。ここで下山さんは倫理、道徳も国境があると知る。民主主義とか平和とか隣人愛、ヒューマニズムといった美しい言葉には限られた状況下においてしか普遍性のないことを悟ったという。
本書は日本カメラ業界がアメリカ、ヨーロッパ、ドイツへ進出、苦闘の末、日本のカメラが世界を制覇した物語だが、その行間に下山さんの人柄、率先遂行、敢闘精神が滲み出ており、堅い精密機械の業界の歴史と動向がよく理解できた。付表(二)の「戦後日独カメラの工業年表」は貴重な産業資料である。 |