2007年(平成19年)2月20号

No.351

銀座一丁目新聞

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追悼録(267)

恨みは深し八甲田山の山スキー

  八甲田山系の前岳山頂付近で山岳スキー中の24名が雪崩にあい、2名死亡、8人が負傷したニュース(2月14日)を聞いて青森5連隊の遭難を思い出した。明治35年1月23日、青森連隊の211名が田代温泉に向った。零下20度の吹雪のうちに26日までに199名が遭難死した。対露戦争に備えた寒地作戦研究の訓練であった。新田次郎著「八甲田山死の彷徨」(新潮文庫)にはこの付近の雪や風の状態について古老の話がある。「大峠(田代より青森寄り)を超えたらまるで白い地獄だ。雪は胸まで積もるほどあって歩くことは出来ない。道は雪に埋って見えないし、冬の間はずっと風が強いから地吹雪で行く先の見当もつかない。もし吹雪でもになったら一歩も歩けない。寒さは酒が凍るくらいの寒さだ」
「死の彷徨」から105年、スキー客はそんな厳しい八甲田山の「白い地獄」も、発達中の低気圧が日本海にあって山が荒れるのもしらず、ロープウェーで前岳山頂の南1キロにある山頂駅まで行く。朝、酸ヶ湯温泉を出る時、晴れていた天候は一転して吹雪となった。風の強さは時速30キロ。コースは中級の2キロ。北に向って滑り降りた。ガイドのリーダーは雪崩を予想して潅木寄りを選んだという。死亡した39歳と44歳の二人の男性は雪崩で不幸にも立ち木に衝突死した。
 青森地方気象台は2月11日午前7時22分からから13日午前4時36分、青森県内全域に雪崩注意報を発令、14日も雪崩発生直後の午前11時10分雪崩注意報を出した。冬山で山の遭難は後を絶たない。それでも遭難事故の99.9%は自分の責任である。ガイドがいてもそれは案内役に過ぎない。自然の猛威は予測できない。だからこそ中止を含めて万全の策を立てねばならない。昭和32年1月には八甲山で1名の遭難者の救助に向った9名のパーティーが猛吹雪のため4名が死亡する2次遭難事故を起している。自然の猛威の前に人はもろい。そこに山岳スキーの醍醐味があるのかもしれない。
青森5連隊と時期を同じくして弘前の31連隊が32名の精兵を選んで少部隊で弘前から十和田湖の南縁を経由して三本木に至り、そこから駒込川沿いに八甲田山のふもとを辿り青森にでて弘前に還る全長234キロ12日間で踏破する雪中行軍を計画した。指揮官の福島泰蔵大尉は必ず地理の明るい案内人をつける、できるだけ軽装備にする、宿営も部落ですることなど細心の準備をした。青森5連隊は青森から三本木まで52キロ2泊1日の行動計画であった。ルートが駒込川ルートで険峻な山間道であった。福島隊もこのルートで難渋するが一人の落伍者も出さずに雪中行軍を完遂した。福島大尉は日露戦争の黒溝台戦で戦死する。40歳の若さであった。多くの福島語録を残す。そのひとつ「忍は大業の基」。31連隊の輝かしい業績は5連隊のあまりにも悲惨な遭難とあまりにも美化された為陰に隠れてしまった。その悲劇は落合直文の「陸奥の吹雪」の歌まで歌われる。「白雪深く降り積もる/八甲田山の麓腹/吹くや喇叭の声までも・・・」
いくら遭難を繰り返しても人間は直に痛みを忘れてしまう。人間は謙虚さより傲慢を選びたがるようだ。

(柳 路夫)

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